提言「物理学における学問分野に基づく教育研究(DBER)の推進」のポイント

1 現状及び問題点

新しい時代における大学教育の急務
 現在、わが国では急速に進歩するAIなどを活用する人材の育成が急務になっている。さらには、文理横断的な普遍的知識と技能を身につけ、予測不能な時代に対応できる思考力を持った人材の必要性が高まっている。その実現には、大学の基礎課程での理・数・工系科目において、知識を伝達する教育から、論理的、批判的、創造的思考力を養う教育への改革が必要である。また、専門家育成にとどまらず、環境、地球温暖化、パンデミックなどの全地球規模の問題について人々が合理的判断を選択できるための科学的素養を育成する教育の重要性も高まっている。
 このような時代の要請を背景に、Discipline Based Education Research(DBER)と総称される新しい教育研究が進展しつつある。これは、それぞれの学問分野に固有の専門性を習得する過程で学習者がどのような困難を感じてどこでつまずくか、どのような誤った概念習得をするかなどについて、認知心理学や脳科学の知見を積極的に取り入れつつ、当該分野の専門家としての知見にもとづいて、学生に知識理解と応用力習得を促す教育方法の実践的で実証的な、エビデンスの蓄積に基づく教育の実現を目指す研究である。この中でとくに物理学では、新しい「物理教育研究」とこれに基づく有効性の高い教育改革が米国を始め各国でめざましい発展を見せている。

物理教育研究に基づく授業改革の明らかな有効性
 物理教育研究では実証的な研究のための調査ツールとして、物理学の様々な分野の諸概念の理解の程度を調べる概念調査テストが開発されている。コースの履修開始時(事前)と終了時(事後)の調査テストの正答率をもとに算出される「規格化ゲインg(理想上限値1)」はコース履修による理解度向上の指標になる。米国等の報告によれば、講義を中心にする伝統的な授業の方式での理解度の向上は乏しくこのg値は0.2前後以下にとどまるが、物理教育研究の知見をもとに設計された、学習者に主体的に学ばせる授業方式を効果的に実行すれば、学生の理解を大きく延び、g値は0.3以上0.7程度まで増大することが実証されている。

わが国の大学授業における極めて乏しい概念理解の向上
 わが国でも、この新しい教育研究を試みる活動の一環として、概念調査テストを使って、力学を学ぶ高校生と大学生について広範な調査が行われている。全国の物理教員の協力を得て2014-16年度に行われたこの調査では、高大あわせて248クラス、計約11000名の被検者データを、また同一クラスに事前と事後のテストをともに実施した高大計69クラス約3000名のデータが得られた。このうちの大学分、29クラス1800名についての調査は、理工系あるいは理科教員養成系の学科の初年次生を対象にして、ニュートン力学の基礎を中心とする物理学入門コースについて行われた。その結果、力学基礎概念の理解度の伸び率を示す規格化ゲインg値はおしなべて0.2ないしそれ以下に留まり、履修による概念理解の向上が極めて乏しいことが見出された。一方、その中で全体の14%にあたるクラスではゲインgが約0.3以上と際立って高い結果が得られたが、そのグループはいずれも物理教育研究に基づく改革型の授業手法を本格的に取り入れていた。

学問分野に基づく教育研究を踏まえた大学教育改革の必要性
 このようなわが国の状況の要因として挙げられるのは、物理教育研究に関わる研究者も、それにもとづく教育を実践している教員がいまだに少なく、かつ広く分散しており、相互の連携は乏しいことである。この連携には学協会や大学等の組織的な取り組みが必要であることである。大学教育改革の必要性は多くの側面から指摘されているが、各専門分野における教育研究に基づき、実際にエビデンスを得ながら改革をしていく試みの例はわが国には多くない。また、卒業に必要な単位数の7割を1-2年次に集中して履修することを可能にする多くの大学の履修体制も、基礎科目を深く学習する事を困難にしていると考えられる。

2 提言の内容

 以上の問題点を踏まえ、大学基礎課程における物理学教育を以下のように改革することを提言する。


  • 1)
    • 物理学の中に学術分野としての物理教育研究の構築が必要である。そのためには現在分散している当該分野の研究者自身が、研究の場を確保し、研究会・論文出版の場を形成するなどの主体的活動を行い、相互に連携して研究のコミュニティを形成すること、加えて、関連諸学会に代表される物理学全体のコミュニティからの支援も必要である。その中では、物理学分野における男女差の研究とその克服は今後の重要課題の一つである。
  • 2)
    • 物理教育研究の人材育成を推進すべきである。物理学のコミュニティが一致して、物理教育研究の学位取得の道を拡げるなどして、人材育成を推進することが必要である。
  • 3)
    • 物理教育研究に基づく改革型授業の大学教育の現場への組織的な導入を積極的に推進すべきである。物理教育研究の専門家と授業を実践する教員の連携による授業改革を可能とするための環境が整備される必要がある。そのためには、第一には学科レベル、さらには学部・大学等の積極的な取り組みが必要である。
  • 4)
    • 物理教育研究に基づく改革型の授業を効果的に行うための教育環境を整備する。 大学前期教育において、一科目に十分な学習時間が確保できる履修環境が必要であり、またグループ授業や情報通信技術が駆使できる環境も必要である。そのために、学部・大学等の運営者、文部科学省等による連携した取り組みが必要である




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