提言「人の生殖にゲノム編集技術を用いることの倫理的正当性について」のポイント
1 作成の背景
日本学術会議では、2017年に「医学・医療領域におけるゲノム編集技術のあり方検討委員会」が「提言 我が国の医学・ 医療領域におけるゲノム編集技術のあり方」(以下、「2017年提言」)を発出し、生殖医療の臨床応用の暫定的禁止をうち出すのみならず、臨床応用を想定した基礎研究についても目下控えるべきとし、ゲノム編集技術に対する法的規制を要請した。その後法規制は進まなかったが、2019年4月に内閣府の総合科学技術・イノベーション会議の生命倫理専門調査会(以下、生命倫理専門調査会)がゲノム編集ヒト胚を人の胎内に戻すことを禁止する法規制を求める報告書を提出し、その後通常国会で議論される見込みである。しかしその一方で日本政府は、2019年6月に遺伝子疾患予防などの開発を目指す基礎研究を許容し、かつ研究目的での新規胚作成も認める方針を表明し、さらに新規受精卵作成の議論も生命倫理専門調査会では進んでいる。しかし基礎研究と臨床応用との距離はごく近いことは近時の世界の動向からも明らかである。人の生殖へのゲノム編集利用は、人類の将来に直接影響しうるため、その適正な利用について国民全体を巻き込む議論をおこなうことが望ましい。日本学術会議科学者委員会ゲノム編集技術に関する分科会は、2020年3月27日に提言「ゲノム編集技術のヒト胚等への臨床応用に対する法規制のあり方について」を発出したが、本分科会では、主に倫理的観点から人の生殖にゲノム編集技術を用いることをめぐる論点を整理し、国民的議論の必要性を明確にし、求められる対応策を提言する。
2 現状及び問題点
人の生殖におけるゲノム編集技術をめぐる倫理的問題については「2017年提言」にも言及はあるが、必ずしも十分に検討されたわけではない。問題の重要性に照らすならば、科学技術における目的と手段の関係や新優生学の問題、自己決定権の問題、未来世代に対する責任といった哲学的論点についてさらに検討する必要がある。その主な検討結果を整理すると、人の尊厳、優生思想や社会的差別、次世代への影響という3点に集約できる。
第1の人の尊厳については、生まれてくる子の権利と親、特に女性の人権の両方について配慮が必要である。子の権利に関しては、遺伝的指標に基づいておこなわれる人の生殖へのゲノム編集利用が、それを経て生まれる子の意思とは無関係に新たな遺伝性疾患の発生という不可逆リスクのおそれのある侵襲となりうる点について十分に考慮する必要がある。特に女性の人権に関しては、ゲノム編集技術を使う生殖の臨床応用が、妊娠・出産する女性の身体に依存する実験的研究にあたるという問題がある。
第2の優生思想や社会的差別に関して、現代では、生殖の決定は国家ではなく親の自主性と個人の判断に委ねられており、各人の人権が守られている以上、過去の悪しき優生学のような問題はないとの理解も広く見られる。そうした理解を背景にゲノム編集技術を使う生殖に関連して、遺伝性疾患等の当事者たち本人への治療や療養支援などへの期待が語
られる。それはきわめて切実かつ正当な期待であり、研究者や社会はそうした期待に応える努力を尽くすべきである。しかしそこからさらに子の遺伝的改変が遺伝的質の保証や改善という観点から擁護され、改善が一種の義務と見なされるとすれば、現に生きている障がい者や難病者に対して生まれてくるべきでなかったというメッセージを送ることにもなりかねない。一方、旧優生学では「望ましくない性質」の遺伝防止を理由に、その遺伝的性質を指標として不妊手術や人工妊娠中絶等の女性の身体への侵襲が認められた。遺伝的指標に基づいておこなわれる人の生殖へのゲノム編集利用でもまた、胚あるいは胎児に新たな遺伝子疾患の発生が確認されれば、人工妊娠中絶や流産・死産も含めて、疾患や障がいをもつ子の出産が回避されることが暗黙の了解となっている。それゆえ、ゲノム編集による子の遺伝的改変は、妊娠・出産を引き受ける女性に疾患や障がいをもつ子を産まないようにと迫る優生学的な強制力となりうる点で、旧優生学と同型の発想がある。
第3の論点は次世代に対する影響である。生殖に関するゲノム編集技術は生まれてくる子だけではなく、さらにその子の子孫にも影響を及ぼす。それゆえ現在世代の自己決定権を基礎とする従来型の生命倫理の論理だけでは十分な対応はできず、未来世代に対する倫理的責任も考慮する必要がある。科学者はもちろん市民社会全体が、ゲノム編集の研究とその成果にのみ関心を留めるのではなく、想定外といった事態を来すことのないよう、人間やその他の生物、社会や地球への影響についても注意を払わなければならない。
3 提言の内容
(1) ゲノム編集技術を使う生殖の法的禁止
以上のように人の生殖にゲノム編集を用いることに関しては、人の尊厳、優生思想や社会的差別、次世代への影響など看過できない問題が山積しており、倫理的正当性を認めることはできない。生殖医療のさまざまな問題点が指摘されながらも法規制のないまま、人々の生殖補助に対する過度な期待が増長している日本では、ゲノム編集を使う人の生殖が拙速に実施され、倫理的・社会的問題を生じる懸念は否定できない。日本で問題が発生することを未然に防ぐためには、強制力を伴う法規制を実現すべきである。(2) 臨床応用を目指す基礎研究についても禁止
ゲノム編集技術を使う人の生殖には、解決し難い倫理的問題が認められる。したがって、遺伝子改変された子を将来誕生させることを企図し、人の生殖細胞や受精胚に対してゲノム編集をおこなう基礎研究についても、合わせて禁止すべきである 。なお、人の生殖や不妊のメカニズムの解明や遺伝性の難病治療法研究に寄与することを目指す基礎的な研究については、倫理審査を経たうえで許容しうる。ただし、その実施状況は公示されるべきである。(3) より包括的な生殖医療法に向けた議論の開始
今後は生殖医療全般にわたるより包括的な立法を視野に入れ、この技術による社会全体に対するさまざまな影響を考えるために、専門家のみならず広く市民が参加し、国民的議論を開始する必要がある。そのために、内閣府は討論が可能となるよう、ステークホルダーとしての不妊治療クリニックの医療関係者や親になりたい人々、遺伝性の難病患者と福祉関係者、そして一般市民に対して十分な情報を提供し、賛成意見・反対意見をバランスよく提示する適切な合意形成プロセスの設計を早急に検討するべきである。
提言全文はこちら(PDF形式:751KB)