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会議報告

持続可能な福祉の構想を求めて:共通理解の確立のために

早稲田大学政治経済学術院教授、第21期日本学術会議副会長 鈴村興太郎

サミュエルソンの寓話

 萌芽期の厚生経済学の進化過程を巡って、ポール・サミュエルソンをインタビューしたときのことである。会話の焦点が社会の効率性と個人的自由の尊重に及んだとき、彼が持ち出した寓話がある。
 ロンドンのセント・ジェームズ・パークを若者がステッキを振り回して歩いていて、通りすがりの老人にあたりそうになった。老人が「君のステッキは公園を散歩する他の人々の迷惑になっている」とたしなめると、若者は「ほっといてくれ。ここは自由な国じゃないか」と食って掛かった。すかさず老人は、「君の自由は私の鼻が始まるところで終わるのだ」と諭したというのである。
 ジョン・スチュアート・ミルの『自由論』には、個人はその周囲に他人の干渉を許さない保護領域を持っていて、他の全ての人々の福祉のためでさえ、この領域を侵犯することは認められないと論じた箇所がある。サミュエルソンの寓話の要諦は、有限な地球を共有する人々は、他人も自分と同等な権利の主体であることを認識して行動すべきであること、社会制度を設計・運営する際には、共有資源を享受する機会が全ての人々に平等に保障されるように、権利の分配と行使を配慮すべきであるということだったのである。

グローバルな環境問題の特徴

 現在我々が直面するグローバルな環境問題は、ミルの個人的自由の社会的境界の問題を越えて、さらに複雑である。地球温暖化問題を例にとれば、その原因となる温暖化ガスの大量な排出と蓄積の歴史は、少なくとも産業革命期にまで遡ることは確実である。それだけに,過去世代は温暖化ガスの蓄積に対する責任の一端を担うべきだが、すでに歴史の彼方に姿を消した彼らに責任を分担させる手段は、殆ど存在しないと認めざるを得ない。また、地球温暖化の影響が本当に深刻化するのは、数十年先の将来世代に到ってからのことだと言われている。そうであれば、温暖化の真に重大な影響を被る人々は、未だこの問題の現場には登場していないことになる。そのため、温暖化の「被害者」が「加害者」に補償の支払いを請求するとか、「加害者」の選択に「被害者」が修正を要求するような機会と手段は、殆どなきに等しいのが実状である。そもそも、温暖化ガスを発生させる「加害者」と、その影響にさらされる「被害者」は、公害問題の場合のように峻別されてはいない。温暖化ガスは生産活動からのみ発生するわけではなく、消費活動からも必然的に発生せざるを得ないからである。むしろ、地球上の全ての人々が「加害者」であると同時に「被害者」でもある点に、地球温暖化問題の本質がある。地球温暖化に対処する制度設計に際しては、これらの基本的な事実を明確に意識する必要がある。

第1図 世代間の歴史的構造

※歴史の起点から現在に至る経路は、図中の太線のように一義的に決定されているが、現在から将来に至る経路は、現在世代と将来の各世代の選択次第で、様々に分岐する。従って、現在世代は遠い将来に誕生する世代の人格・特性を、正確には知り得ない立場にある。

 地球温暖化問題のように、長期にわたる環境問題には、もうひとつ難問がつきまとっている。第1図が示しているように、特定の将来時点で登場する世代は、現在からその時点に到る経路上の全世代の選択次第で異なる経験を蓄積して、異なる人格の持ち主となる。例えば、現在世代が温暖化対策として自家用車の使用を放棄して、公共的交通機関の利用にコミットする場合としない場合とでは、長期的には人々の社会生活と人生設計に大きな差異が生じて、将来世代の社会環境と人格には顕著な相違が生まれることが予想される。将来世代の《可塑性》 (malleability) と呼ばれるこの現象は、遠い将来の世代の福祉に対して、時間的に懸隔した現在世代の人々はどのような情報に基づいて配慮するべきかという、まったく新たな問題を提起するのである。

持続可能な福祉の概念を求めて

 最近、地球温暖化問題をはじめ多くの論脈で注目を浴びている《持続可能性》 (sustainability) の概念は、時間軸にそって継起的に登・退場する世代の福祉を考えるうえで、基本的な重要性を担っている。
 人文・社会科学と自然科学を包摂する日本の科学者コミュニティの代表機関である日本学術会議は、『持続可能な社会のための科学と技術』を共通テーマにして、国の内外から代表的な研究者を招聘する国際会議を2003年から毎年開催してきた。この会議では、持続可能な社会制度の設計とその実現手続きに関して、学術と科学の立場から貢献する水路が模索されてきたのである。
 『日本経済新聞』の後援を得て本年9月に開催された第6回の会議では、《持続可能な福祉》を議論の焦点に据えて、持続可能な社会の制度と政策に関する共通の理解の枠組みを形成する努力が重ねられた。以下では、我々がこの会議で共有した理解の枠組みの骨格を、簡潔に紹介することにしたい。
 持続可能性の概念は、国連の『環境と開発に関する世界委員会』が作成して国連総会で採択された報告書(1987年)に起源を持っている。この考え方は、「将来世代のニーズを満足させる可能性を損なうことなしに、現在世代のニーズを満足させる」という意味で、世代間の衡平性が維持される資源配分の経路こそ、持続可能な選択肢であるという洞察に基づいている。それは、整合的な功利主義者ならば、誕生の時点だけで異なる人々を差別的に処遇すべきではないと主張したシジウィックの世代間衡平性の思想と親和的な考え方であって、我々は基本的にこの観点を支持・継承する。
 福祉の概念に関しては、最初から理解の一致を前提できる現状にはない。経済学者を始め、多くの社会科学者の標準的な福祉観は、ジェレミー・ベンサム以来の功利主義の伝統に根差して、暗黙のうちにひとの福祉をひとの幸福感、満足感、欲求充足の程度など、主観的な目標達成度と連結させて理解してきたといって差し支えない。これに対して、持続可能性アプローチが中核に据える福祉観は、現在から将来にわたる多数の世代の人々が、それぞれに目指す人生計画が異なっても共通に必要とする資源・環境・社会資本を衡平に提供して、各世代が享受する福祉の潜在期な可能性を拡大することに、その焦点を絞っている。アマルティア・センの《機能》と《潜在能力》の理論と親和性を持つこのような福祉観は、将来世代の可塑性の問題を考慮に入れるとき、功利主義的アプローチを越えて、持続可能な福祉概念の開発に進む足がかりとなることが期待されている。この福祉観に幅広い社会的合意が形成できるかどうかという問題は、我々の持続可能な社会の制度設計にとって、非常に重要である。

持続可能な資源配分に対する内在的な制約

 環境と開発に関する世界委員会の報告は、持続可能な資源配分を制約する《環境の能力限界》に対して、慎重な配慮をつとに要求していた。人々の福祉を中核に据えて、持続可能な福祉を実現するシナリオを構想する場合にも、環境の能力限界を無視して人々の物質的な《富裕》を追求することは明らかに不適切であり、究極的には不可能である。
 また、都市環境の整備をはじめとする社会的共通資本の持続的な蓄積や、豊かな生態系サービスと生物多様性の維持には、福祉実現の潜在的な可能性を拡大する手段としての《道具的価値》 (instrumental value) があるのみならず、持続的な福祉の構成要素として内在的価値もあることに注意するべきである。
 持続可能な福祉の構想に関して基本的な理解が共有されても、さらに残される問題は数多い。
 第1に、持続可能な福祉の実現に対しては、その障害となる二重のリスクが存在する。タイプ1のリスクは、潜在的福祉の持続的な拡大を妨げる慢性的な《貧困》である。タイプ2のリスクは、大規模な自然災害や予測困難な突発事故など、特定の世代や地域に集中的な被害をもたらす自然的・社会的なハザードである。これら2重のリスクに対する社会的安全装置を設計して実装するという課題は、まさに『持続可能な社会のための科学と技術』の重要な任務であることは言うまでもない。
 第2に、同時代の国々の間にも、経済発展の前後関係や自然資源の賦存量の格差など、さまざまな不平等性がある。特定時点における特定国の内部にも、若年層・壮年層・老年層の間の富と所得の格差、ジェンダー間の格差など、さまざまな対立の契機となりかねない格差がある。さらに、時間軸のうえで大きく懸隔した世代の間には、枯渇性資源へのアクセスとか、地球温暖化問題における相対的な関係など、深刻な世代間対立の引き金となりかねない差異がある。それだけに、自然科学の知見を的確に踏まえ、錯綜した利害対立と相互依存を慎重に読み解いて、世代間・世代内対立を解決する人文学・社会科学の叡智は、持続可能な潜在的福祉の着実な拡大の水路を開発するために、いまこそ決定的に必要とされている。

(2008年11月18日)

『日本経済新聞』 [経済教室] 「持続可能な社会の制度設計」2008年10月28日号。この論稿を僅かな加筆・修正を施して再録することを許可された日本経済新聞社に感謝したい。