物理教育・理科教育の現状と提言


「物理学研究連絡委員会」

平成12 年6 月26 日
日本学術会議



 こ の報告は,第17 期日本学術会議 物理学研究連絡委員会の審議結果をとりまとめて発表するものである。

物理学研究連絡委員会
委員長
 長岡洋介  日本学術会議第4 部会員・関西大学工学部教授
幹事
 石黒武彦  京都大学大学院理学研究科教授
 矢崎紘一  東京女子大学文理学部教授
 清水忠雄  山口東京理科大学基礎工学部電子基礎工学科教授

 和田昭允  日本学術会議第4 部会員
         理化学研究所ゲノム科学総合研究センター所長
 江澤 洋  日本学術会議第4 部会員・学習院大学理学部教授
 郷信広    日本学術会議第4 部会員・京都大学大学院理学研究科教授
 益川敏英  日本学術会議第4 部会員・京都大学基礎物理学研究所長
 川久保達之 日本学術会議第5 部会員・桐蔭横浜大学工学部教授
 荒船次郎  東京大学宇宙線研究所教授
 安藤 健  GE 東芝シリコーン(株)技術研究所所長
 大谷俊介  電気通信大学量子物質工学科教授
 小林俊一  理化学研究所理事長
 佐藤文隆  京都大学大学院理学研究科教授
 高田俊和  日本電気株式会社
         システムデバイス基礎研究本部主席研究員
 山口嘉夫  東京大学名誉教授
 覧具博義  東京農工大学工学部物理システム工学科教授
 笠   耐  上智大学理工学部物理学科非常勤講師
 若谷誠宏  京都大学大学院エネルギー科学研究科教授
 秋光 純  青山学院大学理工学部教授
 遠藤康夫  東北大学金属材料研究所教授
 巨海玄道  九州大学大学院理学研究院教授
 興地斐男  和歌山工業高等専門学校長(大阪大学名誉教授)
 北原和夫  国際基督教大学教養学部理学科教授
 櫛田孝司  奈良先端科学技術大学院大学物質創成科学研究科教授
 合田正毅  新潟大学工学部教授
 斯波弘行  東京工業大学理学部教授
 鈴木治彦  金沢大学自然科学研究科教授
 張紀久夫  大阪大学大学院基礎工学研究科教授
 西田信彦  東京工業大学大学院理工学研究科教授
 福山秀敏  東京大学物性研究所所長
 三浦 登  東京大学物性研究所教授目 片 守 福井大学名誉教授
 本河光博  東北大学金属材料研究所教授
 安岡弘志  日本原子力研究所先端基礎研究センターセンター長
 山田耕作  京都大学理学部教授
 上坪宏道  (財)高輝度光科学研究センター放射光研究所所長
 関本 謙  京都大学基礎物理学研究所教授
 池田清美  理化学研究所加速器施設理論担当客員研究員
 石原正泰  東京大学大学院理学系研究科教授
 伊藤信夫  大阪市立大学理学部名誉教授
 今井憲一  京都大学大学院理学系研究科教授
 折戸周治  東京大学素粒子物理国際研究センターセンター長
 黒川眞一  高エネルギー加速器研究機構加速器研究施設教授
 高崎史彦  高エネルギー加速器研究機構素粒子原子核研究所教授
 谷畑勇夫  理化学研究所リニアック研究室主任研究員
 千葉順成  高エネルギー加速器研究機構素粒子原子核研究所助教授
 土岐 博  大阪大学核物理研究センター教授
 戸塚洋二  東京大学宇宙線研究所所長
 永嶺謙忠  高エネルギー加速器研究機構物質構造科学研究所教授
 永宮正治  高エネルギー加速器研究機構素粒子原子核研究所教授
 中村健蔵  高エネルギー加速器研究機構素粒子原子核研究所教授
 二宮正夫  京都大学基礎物理学研究所教授
 野村 亨  高エネルギー加速器研究機構素粒子原子核研究所教授
 政池 明  福井工業大学工学部教授
 松岡 勝  宇宙開発事業団宇宙環境利用研究システム
 村木 綏  名古屋大学太陽地球環境研究所教授
 山田作衛  高エネルギー加速器研究機構素粒子原子核研究所長
 山本嘉昭  甲南大学理学部教授
 湯田利典  東京大学宇宙線研究所教授
 渡邊靖志  東京工業大学大学院理工学研究科教授
 市川行和  文部省宇宙科学研究所教授
 加藤義章  日本原子力研究所関西研究所光量子科学研究センター長
 黒田成俊  学習院大学理学部教授
 小林信夫  東京都立大学大学院理学研究科物理学専攻教授
 多田邦雄  横浜国立大学工学部電子情報工学科教授
 橘 秀樹  東京大学生産技術研究所教授
 玉野輝男  筑波大学名誉教授
 西川恭治  近畿大学工学部電子情報工学科教授
 伏見 讓  埼玉大学工学部教授藪 崎 努 京都大学大学院理学研究科教授
 山崎泰規  東京大学大学院総合文化研究科教授
 木田重雄  核融合科学研究所教授
 西尾成子  日本大学理工学部教授
 盛永篤郎  東京理科大学理工学部物理学科教授

物理学研究連絡委員会 物理教育小委員会
委員長
 覧具博義  東京農工大学工学部物理システム工学科教授
幹事
 兵頭俊夫  東京大学大学院総合文化研究科教授

 合田正毅  新潟大学工学部教授
 西尾成子  日本大学理工学部教授
 村木 綏  名古屋大学太陽地球環境研究所教授
 笠   耐  上智大学理工学部物理科非常勤講師
 渡邊靖志  東京工業大学大学院理工学研究科教授

要 旨

1 .報告書の名称
第 17 期日本学術会議 物理学研究連絡委員会報告
「物理教育・理科教育の現状と提言」

2 .報告書の内容
(1 )作成の背景
 現在の我が国の学生の学力低下には深刻なものがあり,大学段階の教育の責任を担 う教育・研究の専門家集団としても,この状況に強い関心をもたざるを得ない。この 現状に対応すべく,物理教育・理科教育について検討して問題点を明らかにし,大学 教育の効果を十分あげるための有効な方策を探った。

(2 )現状及び問題点
・高校卒業生のあきらかな学力低下の現実
・度重なる学習指導要領の改訂とその問題点
・学習指導要領と大学教育のミスマッチ
・教科書検定の問題点
・大学入学試験による安易な解決の影響
・大学基礎教育の弱体化
・教育への国家投資の貧弱さ

(3 )改善策,提言などの内容
・大学人・研究者も初等中等教育についての充分な認識を
・教科書検定の拘束の緩和を
・大学入試による影響力発動には高校の実情に十分な配慮を
・初等中等教育の内容を十分に認識した上での高等教育を
・大学の教育体制の整備を


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目 次

はじめに

1 現状
1.1 高校卒業生のあきらかな学力低下の現実
1.2 度重なる学習指導要領の改訂とその問題点
1.3 学習指導要領と大学教育のミスマッチ
1.4 教科書検定の問題点
1.5 大学入学試験による安易な解決の影響
1.6 大学基礎教育の弱体化
1.7 教育への国家投資の貧弱さ

2 提言
2.1 大学人・研究者も初等中等教育についての充分な認識を
2.2 教科書検定の拘束の緩和を
2.3 大学入試による影響力発動には高校の実情に十分な配慮を
2.4 初等中等教育の内容を十分に認識した上での高等教育を
2.5 大学の教育体制の整備を

参考文献



物理教育・理科教育の現状と提言


はじめに

 現在の我が国の大学入学者の学力低下は,18 歳人口の減少や大学進学率の増大から だけでは説明できない深刻なものである。彼らに対して,大学段階で十分な教育を施 すことは,大学人にとどまらず,物理の教育研究関係者にとって極めて重要な現実的 な課題である。大学における物理教育の中でもとりわけ重要なのは,高校教育からの スムーズな接続を実現する基礎教育,また,文系理系の枠を越えた,物理以外の領域 に進出する学生達に向けての物理の共通教育ないし教養教育である。

 大学段階での教 育の成否は,次世代を担う教育と研究の後継者達の資質だけでなく,より広く,自然 科学及び物理学への一般市民の理解や信頼を大きく左右すると考えられる。大学生の 学力低下には,初中等教育とそれを取り巻く環境の中にも重大な要因が存在する。

 物理学の教育・研究の専門家集団としても,この状況に強い関心を維持し,課題を抽出 し,有効な対応策を提言していくことは,重要な責務であると考えている。 物 理学研究連絡委員会では,昨年物理教育小委員会を設置し,これらの問題につい て調査と議論を重ね,大学の物理教育とそれにかかわる初等中等教育の問題点を明ら かにすることに努めた。その結果をここに報告するとともに,それに基づいて,物理 の教育・研究に携わる人たち,行政及び現場の教育関係者,および広くこれらの問題 に関心をもたれる方々への提言をまとめた。

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1 現状

1.1 高校卒業生のあきらかな学力低下の現実

 大学入学時の学生の学力・知力の低下[ 1] は,かねてより指摘されていたことでは あるが[ 2] ,最近,さまざまな指標によって明確になってきている。1998 年に大学入 試センターが国立大学 362 学部の学部長を対象にアンケート形式で行った「学生の 学力低下に関する調査」[ 3] によると,半数以上の学部が,学力全般,およびその様々 な側面について,「低下している」あるいは「やや低下している」と回答している。 これに対して,「上昇している」あるいは「やや上昇している」と答えた学部は6% に満たない。

 数学については,実際に試験を行って,分数や小数の計算のできない大学生がいる ことが,驚きとともに報告されている[ 4] 。また,教育課程(学習指導要領)の違い による学力の低下を各科目について客観的に示したデータも,ある予備校から発表さ れている[ 5] 。結果は極めて憂慮すべきもので,全教科的に正答率が下がっているが, 特に数学・物理等の理系科目での低下が著しい。18 才人口の平均学力が不変であると 仮定すれば,大学の入学定員がそれに応じて減っていない以上,入学者の学力の平均 が低下するのは当然である[ 6] 。しかしこの調査は,それ以上の実質的な学力低下が 生じていることを示している。

1.2 度重なる学習指導要領の改訂とその問題点

 大学入学者の学力低下は,小学校・中学校・高校の授業の成果が以前ほどあがって いないことを示すものである。これらのいわゆる初等中等教育は,学習指導要領によ って規定されている。従って,その影響を検証する必要がある。

 学習指導要領が定めている小・中学校の理科の時間は,改訂の度に甚だしく減少し ている[ 7,8] 。特に1989 年改訂の現行学習指導要領から小学校 1 ,2 年生の理科が廃 止されたことの影響は大きい。1968-69 年改訂に比べて小・中学校の全学習時間は4.5% しか減少していないのに対して,理科の時間数は30%〜27%(幅は選択部分) 減少し た。1998 年に改訂された次期学習指導要領では,学校週5 日制の完全実施に向けて改 訂が行われたため,小・中学校の全学習時間は1968-69 年改訂に比べて11%の減少と なるが,理科は39%の減少となっている。これは,週5 日制への対応のほかに新たに 総合的学習の時間が作られたためである。「自ら課題を見つけ,自ら学び,自ら考え, 主体的に判断し,よりよく問題を解決する資質や能力を育てること。」および「学び 方やものの考え方を身につけ,問題の解決や探求活動に主体的,創造的に取り組む態 度を育て,自己の生き方を考えることができるようにすること。」とされる総合的学 習の時間の目標は,教科の学習を通じてこそ可能である。「総合的」という言葉にと らわれず,この時間は,さらなる学力低下を防ぎつつ上記の目標を達成できるように 使われるべきであると考える。

 高等学校学習指導要領では,理科の選択制や単位数(高校は必要学習時間を単位数 で表す)の編成等が毎回大幅に変化している[ 9] 。1960 年改訂の高等学校学習指導要 領では,理科の必修単位が 12 単位であったものが,1970 年改訂では 6 単位になり, 現行および 1999 年改訂の次期学習指導要領では 4 単位にまで減っている。また,選 択の拡大のために,理科の全ての科目について履修者が減少している。履修率の統計 はないので,教科書の採択冊数によって推定すると,特に物理と地学の減少が甚だし い。また,高校レベルの体系的な理科(現行学習指導要領で言えば IB およびII )を 履修している生徒は,現在,最も多い化学(化学IB +化学II )ですら17%に過ぎない。 物理(物理IB +物理II )は12%である。

 1970 年改訂以来,改訂のたびに進められてきた高等学校教育課程の選択の拡大は, 全体を見ると幅広くカバーしているように見えて,その実,一人一人の生徒は極端に 偏った内容しか学ばない制度である。これが果たして日進月歩の科学技術の発展に対 応できるものであり,国民の利益にかなうものかどうか,真剣に検討される必要があ る。学 習指導要領はほぼ 10 年ごとに改訂されているが,改訂の目的は必ずしも明確で はなく,まして,個々の項目の削除や追加・復活については,納得のいく理由が示さ れているわけではない。特に深刻な事態が次期学習指導要領の改訂で発生した。今回 は内容の厳選が唱われ,理解度が低いと判断された内容が,小学校から中学へ,ある いは中学から高校へ移されたが,中学から高校に移行統合された物理関連分野の項目 には,「力とばねの伸び」「質量と重さの違い」「自由落下運動」「水の加熱と熱量」 「比熱」「水圧」「浮力」「交流と直流」「真空放電」「電力量」「電池」「力の合 成と分解」「仕事と仕事率」等がある。ところが,高校の理科は選択であるため,新 課程の物理 I を履修する生徒はせいぜい現行課程の物理 IB と同じ 30%弱,あるい はそれ以下であろうと予想される。つまり,これまでは中学で全員が学習していたこ れらの基本概念を,70%以上の生徒が学習せずに高校を卒業することになるおそれが ある。理科の他の科目で中学から高校へ移行統合された内容についても,割合の多少 はあれ,同様のことが言える。

1.3 学習指導要領と大学教育のミスマッチ

 こ れまで大学は初等中等教育の課程に関してあまりに無関心でありすぎた。4 年間 の大学教育で,あるいはそれに続く大学院教育で,先進諸国の大学の卒業生にひけを 取らない卒業生を教育の力で生み出すためには,本来,入学以前の教育課程に無関心 ではいられないはずである。

 大学は,学習指導要領に従って小学校・中学校・高校の教育を受けた学生を迎え入 れて,教育を施す立場にある。それが効果的であるためには,学生のレベルにマッチ した教育内容・方法を用いなければならない[ 10] 。教えられる学生にとって,目の前 の教員が前提としている知識が自分の知識と整合していることが,講義を理解する上 で決定的な意味を持つ。学習指導要領の改訂によって履修しないことになった基礎的 事項については,大学の側で正確に認識し,カリキュラムや講義内容の改訂に反映さ せるべきことと思われる。さもなくば,学習指導要領に働きかけて初等中等教育を変 える必要がある。いずれの場合も大学は学習指導要領や教科書の記述について熟知し ていなければならないだろう。

 実例を挙げると,「レンズの公式」は学習指導要領の改訂によって高校物理に含ま れたり除かれたりしてきた。大学教員の何%がそれを認識した上で,学生実験や光学 を教えてきただろうか。同様の例が,数学の「共役な複素数」の概念にみられる。大 学の物理学,化学,(機械や電気)工学等の複素数を使う分野の授業は,このことを 十分認識して行われてきただろうか。次期学習指導要領で中学から高校へ移されるこ とになった「力とばねの伸び」や「比熱」「交流と直流」「仕事と仕事率」など 1.3 で述べた項目についても,中学・高校のいずれの段階でも学習しなかった新入生が 2008 年以降はかなりの数に上ることを,大学では十分認識して授業を組み立てる必要 がある。

1.4 教科書検定の問題点

 次期学習指導要領では「総則」の記述が書き換えられ,小学校,中学校,高校とも 「第2 章以下に示していない内容を加えて指導することもできるが,・・・」と明記 された。ところが,教科書検定ではむしろ,記述を第2 章の内容に限るように強く指 導する方針のようである。また,次期中学校学習指導要領では,「理科」の学習の順 序を指定するという新たな規制が導入された。

 しかし,「総則」の書き換えの精神は,教科書検定基準の緩和とあいまってはじめ て生かされるものではないか。再び実例を挙げると,次期高等学校学習指導要領は「正 弦波の式」を教えることを想定しておらず,それを教科書に書かないよう強い指導が されている[ 11] 。教科書検定でこの点が厳密に適用されてしまうと,全ての教科書か ら波動の式が消えてしまう。そうなると,大学では,2006 年以降の力学,振動・波動 論,量子論,物理化学等の講義で,波が三角関数で表されることから教えなければな らない。このことをあらかじめ各大学の講義担当者に周知徹底する必要がある。しか し,教育上の重大性を考えるとき,そのような受け身の対応だけではなく,学習指導 要領と教科書検定の関連について,大学側も十分議論して,改善に向けての働きかけ も必要であろう。

1.5 大学入学試験による安易な解決の影響

 学習指導要領が大学での教育との接続に対する配慮のないまま改訂されてきたた めに,事態は大学人が手を拱いていることを許さない段階に来ている。大学はいまや, 入学を望む受験生に最小限必要な事項を学習指導要領の範囲を超えて要求せざるを 得ない場合もあろう。

 しかし,大学入試をてこに高校以下の教育に影響を与えようとすることには,慎重 でなければならない。大学は自らの意志を入試を通じて実現しようとする際,常に自 制し自ら歯止めをかける工夫をする必要がある。大学入試の影響力は非常に大きいた め,混乱を引き起こすようなことがあれば,受験生に思わぬ打撃を与える恐れがある からである。

 たとえば,削減してきた入試の科目を今後再び増加させる必要があると思われるが, その場合も,すでに高校教育が削減された科目に対応した教育体制になってしまって いることに十分配慮し,高校の実情を十分にふまえて行われるべきである。また,学 習指導要領の範囲を超えた出題をする場合も,不用意に受験生に過重な負担を強いる 可能性を未然に防ぐ工夫が望まれる。

1.6 大学基礎教育の弱体化

 学力・知力の低下や指導要領改訂への対応をはじめとして,大学の組織的な対応が 望まれる課題が山積しているが,はたして有効な対応がなされているだろうか。 1991 年の大学設置基準の改正(いわゆる大綱化)以降,多くの大学で教育改革が進 められるなかで,基礎教育の教育体制は大きなゆさぶりを受けた[ 12] 。

 大綱化に伴う基礎教育体制の改革はおおむね以下の3 種類に分類できる。
(1 )一般教育部門を解体し,それに属していた教員が他学科に分属したケース
(2 )一般教育部門を解体し,既存の学部の改組を含めて新しい学部を組織したケー ス
(3 )一般教育に責任を持つ従来からの組織が事実上維持されたケース
である。

 このうち,(1 )のケースでは,名目的には全学の教員が分担する「全学 出動体制」で基礎教育が行われる。その実施のための組織ないし責任体制として,多 くの大学は全学的な運営委員会やその傘下の専門委員会を組織して一般教育・共通教 育の実施に当たる形態を採用している。これらの改革には成功例も少なくないことを 期待したいが,残念ながら,多くの大学で基礎教育に対する責任体制が曖昧になり, カリキュラムの編成,教員の担当割り当て,予算や教室等の施設の確保,さらには事 務などの支援体制について弱体化や混乱が見られるようである。

 日本物理学会の物理教育委員会では,物理の基礎教育体制の実情について調査を実 施中である。その結果の整理と分析にはなおしばらくの時間を要すると思われるが, 既にアンケート送付の時点で,基礎物理教育の実施責任部門の所在が不明確で連絡が とりにくい大学が少なからずあったという。大学の基礎物理教育体制が真剣に見直さ れるべき状況にあることがうかがえる。

 しかし,このような一般的な状況のもとでも,独自の教育体制を堅持して質の高い 教育水準の維持に努めている大学や,カリキュラム改革のみならず,1 科目週あたり 2 コマ以上の集中授業,少人数教育体制,学生による授業評価などを組み合わせた抜 本的な教育体制改革にすでに着手した大学もあることは注目に値する。

1.7 教育への国家投資の貧弱さ
 大学生の学力低下への対応を含め,今日,大学における教育の質的な改善への社会 的な要請が強まっている。1991 年の大学設置基準の大綱化に伴う大学改革では,必ず しも十分な質の改善が行われたとはいえない。その中で,より質の高い教育水準を目 指して第2 段階の改革を開始した大学も現れてきている。その努力は大いに評価して, 支援していく必要がある。
 しかし,大学は,スタッフ不足,教室や視聴覚機器などの資材不足,学生実験の設 備の老朽化や運営予算の不足など,教育の充実のためにまず解決されなければならな い深刻な問題を数多く抱えている。このことが十分に認識され,21 世紀に向けての我 が国の教育の質的な向上のために,教育体制の整備に対する人的,財政的な投資がな されるべきである。我が国の高等教育に対する公的投資はGDP 比 0.5%で,米国の 半分以下である。初等中等教育を見ても,1 クラスの人数は欧米並の少人数が実現で きておらず,理科実験費が乏しいなど,多くの問題がある。一方で科学技術基本法の もとで欧米を上回る研究開発予算が投入されているにもかかわらず,教育予算は少な すぎる。財政的な強化を伴わない改革努力には限界がある。教育の質的向上に向けて 国家投資の強化を図ることを強く訴えたい。

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2 提言

2.1 大学人・研究者も初等中等教育についての充分な認識を

 大学人・研究者も,学習指導要領で規定されている時間数の減少,および教育内容 の変化について十分認識すべきである。大学人が初等中等教育にあまりに無関心であ りすぎたことが,この困難な状況に陥ることを未然に防ぐことができなかった原因の 一つであると思われる。また,大学の入学試験科目の減少を指導してきた文部省,お よび実際に減少させた大学の責任は大きい。大学人は,この事態を正面から受け止め, 若者の学力低下に歯止めをかけることに力を尽くす責務がある。

2.2 教科書検定の拘束の緩和を

 学習指導要領が,今回の改訂で,「(そこに)示していない内容を加えて指導する こともできる」と書き換えられた今,教科書検定が従来通り厳しく制限する姿勢で行 われようとしているのは,首尾一貫していない。内容を厳しく制限した教科書で,今 日の科学や技術の基礎となる教育を行うことは困難である。規制の緩和を是非求めた い。

2.3 大学入試による影響力発動には高校の実情に十分な配慮を

 我が国では,入試制度や入試問題の内容を操作することによって,教育の改革を試 みることがたびたび行われてきた。最近,初等中等教育の不十分さに対応し,高校生 の質を確保するために,入試科目の増加や受験条件等の明示等さまざまな方策が考え られようとしている。しかし,それらの改革は,高校教育にさらなる歪みをもたらす ことのないよう,大学側の一方的な思い込みによることのない,無理のない方式で行 われるべきである。

2.4 初等中等教育の内容を十分に認識した上での高等教育を

 市民の素養の維持および大学教育との接続の観点から,大学関係者が学力低下をは じめとする初等中等教育の諸問題の解決のために尽力するのは当然のことである。し かし,すでにその教育を受けて入学してきた新入生に対しては,彼らが受けてきた課 程の内容を十分に認識して,それを前提とする教育を行うべきである。そのためには, その時々の学習指導要領や教科書で扱われている内容を,担当教員が熟知する必要が ある。特に,高校理科の選択制のために,ある科目を全く学んでいない学生がいるこ と,またその学生は,かつては中学で学習した基礎項目の一部を学んでいないことに 対して,十分な対応をすべきである。

2.5 大学の教育体制の整備を

 大学生の学力低下を含め,今日,大学における教育をめぐる状況は日に日に厳しさ を増している。1991 年の大学設置基準の大綱化に伴う改革では,必ずしも十分な教育 の改善が行われたとはいえない。しかも,我が国の高等教育に対する公的投資は未だ GDP 比0.5%と少なく,米国の1.1%に対して半分以下である。 21 世紀に向けて教 育を立て直し,育成する人材の質的転換を図るためには,初等中等はもちろんのこと, 高等教育にも先進諸国と同程度の国家投資を行い,充実した環境による教育の質的改 善を図らなければならない。

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参考文献

[ 1] 特集「学力低下−日本の深い危機」,世界(岩波書店)2000 年5 月号.
[ 2] 江澤洋「教育論の視点」,科学(岩波書店)59-8 (1989)497 .
[ 3] 学生の学力低下に関する調査結果について(通知)」(大学入試センター)平成 11 年3 月26 日).
[ 4] 戸瀬信之・西村和雄「低落する大学生の数学学力」,科学(岩波書店)2000 年3月 号.
[ 5] 特集「高校生の学力低下問題を検証する」,Guideline (河合塾)1999 年11 月号 .
[ 6] 有馬朗人「教え育むこと」,大学の物理教育(日本物理学会) 1999-S (1999)12 .
[ 7] 近桂一郎「物理の教育」,物理学研究連絡委員会報告「日本の物理学−明日への 展 望」(日本学術会議)平成6 年3 月25 日.
[ 8] 笠耐「日本学術会議物理学研究連絡委員会に提出した指導要領に関する資料」 物理教育通信 96 (1999 )59 .
[ 9] 特集「教科書作成過程の実状と改善の方向」,物理教育(日本物理教育学会) 47(1999)343 .
[ 10] E.F.Redish(訳:渡辺靖志,笠耐)「物理教育を科学に」(ミリカンレクチャー, 1998)物理教育(日本物理教育学会) 48-1 (2000 )37 .
[ 11] 高等学校学習指導要領及び高等学校教科書用図書検定基準理科説明会記録 (平成11 年4 月26 日)
[ 12] 大学セミナーハウス編「続 大学は変わる」(国際書院 1995 ).

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