海事工学の役割と将来についての提言


「船舶海洋工学研究連絡委員会、人工物設計・生産研究連絡委員会海事工学専門委員会報告」


平成12年4月24日

日本学術会議
船舶海洋工学研究連絡委員会
人工物設計・生産研究連絡委員会海事工学専門委員会


 この報告は、第17期日本学術会議船舶海洋工学研究連絡委員会および人工物設計・生産研究連絡委員会海事工学専門委員会での審議結果を取りまとめ発表するものである。

[船舶海洋工学研究連絡委員会]
委員長  加藤洋治(日本学術会議第5部会員、東洋大学教授)
委員    濱本剛実(福井工業大学教授)
       中武一明(九州大学教授)

[人工物設計・生産研究連絡委員会海事工学専門委員会]
委員長  加藤洋治(日本学術会議第5部会員、東洋大学教授)
幹事    畔津昭彦(東京大学助教授)
       不破健(運輸省船舶技術研究所推進性能部長)
委員    大楠丹(九州大学応用力学研究所教授)
       嶋田武夫(日本郵船株式会社顧問)
       角 洋一(横浜国立大学教授)
       冨田康光(大阪大学教授)
       藤野正隆(東京大学教授)
       前田久明(東京大学生産技術研究所教授)


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目 次

1 海事産業の現状と海事工学の役割に関する基本認識
1.1 背景
1.2 海事工学の役割に関する基本認識

2 海事工学の将来についての提言


1 海事産業の現状と海事工学の役割に関する基本認識

1.1 背景

(1)日本は、海外貿易の99.8%を、そして国内輸送の41.7%を海上輸送に依存している。
 外航海運は、エネルギー関連資源のほぼ100%(石炭95.3%、原油99.7%)と、穀物の73%を海外から運んでいることから、国民生活の根幹を支持するインフラとして重要である。
 また、内航海運は、陸上輸送機関に比較して環境負荷が小さいことから、モーダルシフト(貨物輸送機関の利用形態を変えること)の受け皿としての期待が高まっている。

 世界の海上輸送は、アジアの経済発展と共に増加の傾向にあり、わが国は勿論のこと、世界の暮らしと経済の根幹を支える重要なインフラである。
 しかし、一方で外航海運は世界単一市場として厳しい国際競争に晒されており、その結果として船員の熟練度の急激な低下、一部の海運会社によるサブスタンダード船の運航による大事故の多発など深刻な問題が生じている。
 また、従来、内航海運は国内の強固な規制によりその秩序を保ってきたが、規制の撤廃により船腹の過剰が顕在化し、モーダルシフトなどの国民的期待に応える企業活力を発揮するには程遠い状況である。

 このような状況を放置すればわが国の国民生活に重大な支障を来すことが懸念されている。

 一方、海運を支えるハードウェア即ち「船」を作る造船業に目を移すと、1980年代以降の新興造船国の技術向上、国際的な建造能力過剰、人件費の高騰等により、わが国造船業は相対的に技術力・競争力が低下し、企業経営上困難な局面を迎えている。
 また、わが国から新しいマーケットを生み出すような革新的な船舶(例えばコンテナ船、LNG 船、自動車専用運搬船など)の発想が出ないことも問題である。
 また、数回の不況による若年層の造船業離れに伴い、設計・建造・保守に関して現在までに蓄積された高度な知識を体系化し、さらに発展させることが難しくなっており、逆に、今後10年以内に急激な技術力の低下が生じることが危惧されている。
 内航海運の将来は環境問題に対応した新しい国内物流の在り方にも密接に関係しているが、これを支えるべき中小造船業は、受注の急減により大規模な企業淘汰に直面しており、このような今日的課題への技術的対応能力を失っている。


(2)人類が利用しうる地球上に残された場として海洋の役割は重要であるとともに、気候変動を始めとする地球環境変動に、海洋が深く係わり重要な役割を果たしているとの指摘がなされて久しい。
 また、来たるべき21世紀に人類が当面する課題のひとつに、地球上の人口の爆発的増加に伴うエネルギーおよび資源の確保があり、その解決のひとつを海洋が担うと期待されている。
 たとえばCO2などの温室効果ガスの排出に伴う温暖化に効果的に対処するため、海洋のCO2吸収効果を利用する方策が検討されている。
 
 さらに、国土の狭隘なわが国では、人間活動の健全な発展を支えるのに必要な空間を継続的に確保することが喫緊の課題である。
 その解決策のひとつとして、沿岸域の埋立などによる土地造成が進められてきたが、内湾域の有する環境浄化作用や自然景観保護の重要性の認識から、大型浮体構造物による沖合での空間創成が近未来に現実されるものと期待されている。
 とくに、陸域では膨大な面積の確保が困難な大規模空港や廃棄物・下水処理場などの交通および都市基盤施設などの建設に海洋空間を利用することが考えられている。
 しかし一方で、大規模な人工物の海洋への設置に対し、それがもたらす海洋の自然環境への影響に対する危惧の念も表明されている。
 海洋環境への影響を適切に評価しつつ、海洋における人間活動を健全かつ持続的に進展させて行くことに、海洋工学の果たす一層の貢献が期待されている。


1.2 海事工学の役割に関する基本認識

 本節では、船舶工学、海運工学、舶用機関工学および海洋工学を包括するものとして海事工学を位置付け、前述の海運および造船における厳しい社会状況、一方で海洋利用における将来への期待を踏まえ、海事工学の果たすべき役割について考察するものとする。

 海運がわが国の国民生活の基盤であるにも拘わらず、前述のように、それを支える人および船に関して深刻な問題を抱えている。
 したがって、海上輸送の安全に係わる技術、海上輸送に伴う環境に対する危険の防止、さらに我が国の海運競争力を強めるための技術開発のあり方についてヒューマン・ファクターも含め検討することが重要である。
 また、地球環境保全の観点からモーダルシフトを含め海上輸送の果たすべき新しい役割について検討することも重要である。

 一方、造船技術については、高人件費・少子化の進展の中で、将来もわが国の商船建造競争力を維持するためには、設計・建造の効率化が必須であり、そのための情報化および自動化技術の設計・建造プロセスへの導入が一層推進されるべきである。
 しかしながら、ここで注意すべきことは、このような情報化技術の導入は効率化には有効だが、必ずしも新概念の発想には直結しないことである。
 新しいマーケットを生み出す斬新なアイディアの発想には、社会経済全般に関する広い教養と深い専門知識に基づく洞察力が要求される。
 将来の海事工学を担う技術者の育成には、このような心のゆとりと高度に体系化された海事工学教育が必要であり、現在の船舶海洋工学の教育研究体制の質的および量的転換を図るべきである。

 従来、海運と造船はそれぞれ縦割的に活動していたが、最近の衛星通信の発展は陸上からの航海支援などを可能にし、運航技術と造船技術の接点に位置する研究の推進が期待されている。
 今後、海上輸送・港湾・陸上輸送を統合した物流システムの技術開発、船の建造企画から廃棄に至るライフサイクル全般に関する技術開発など、各種の周辺分野を統合化した技術開発が必要となる。

 人類の持続可能な発展を支えるため、海洋の利用が飛躍的に進展する可能性がある。
しかし、海洋の利用を推進するうえで解決すべき技術的課題は勿論のこと、その他にも多くの課題が存在する。
 海運、水産、レジャー、沿岸立地産業など、利害が対立する種々の利用者間の調整をどのように図るかは、海洋を利用するための人工物と自然環境との調和と同様に重大な課題である。
 これらを海事工学のみで解決できるとは思われないが、海事工学もこのような課題の解決に係わって行くことが求められよう。

 一方、人工物と自然環境の調和を図るためには、海洋の自然環境への理解が不可欠である。
 海洋科学との緊密な連繋を図るとともに、海洋の諸現象の理解に積極的に参画することが求められる。
 このような理解の下、海洋環境への負荷の少ない人間活動のあり方とその具体的方策を計画および実現してゆくことも海事工学の役割である。


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2 海事工学の将来についての提言

 ここまでに述べたように海洋を如何に理解し、保全し利用するかは、21世紀以降の人類にとって重要な課題である。
 特に海洋に囲まれた日本にとっては、海洋に関する科学技術の発展にかける期待は大きい。

 それにも拘わらず官産学のいずれにおいても、長期的、総合的視野に立った海事工学についての検討は十分に行われてはいない。
 特に海事工学のエキスパートの確保と養成は、将来にわたって極めて重要であるにも拘わらず、それに対する総合的な施策がない。
 現在、大学においては海事工学の教育が減少し続けている。産業界においても当該分野の研究者・技術者の数が減少している。
 国立研究機関においても独立行政法人化への変化の中で確固たる中長期的な展望をもてない現状である。

 このような事態は憂慮すべきものであり、本報告では下記の提案を行う。

(1)海事工学を総合的に教育・研究する高等教育機関および研究機関ならびに海洋環境保全・防災のエキスパートを集合した機関の整備を速やかに行い、その発展に努めること。

 わが国では船舶工学と海洋工学の専門教育は、6校の国公立大学に2校の私立大学を加えた8校で行われ、その卒業生総数は学部が年間350名(但し、そのうち約150名は大学院進学)あまり、大学院修了者が年間約150名で、年間の就職者数はおおよそ350名である。

 このうち、造船会社に就職するものは100名(平成11年3月卒業者では約80名)を下まわるようになって久しい。
 しかも、この数は、近年さらに減少する傾向にある。
 その他の卒業生は、造船以外の諸工業をはじめとする他分野に職を得て、それぞれ活躍しているが、このような事情を反映して大学における船舶工学と海洋工学に関する教育カリキュラムの密度は、ここ数年、目立って薄まりつつある。

 わが国が海上輸送・陸上輸送等を総合した物流システムに関する新機軸を打ち出し、かつ、これに係わる技術開発を積極的に進めて行くには、船舶工学、海運工学、舶用機関工学を総合的に教育・研究する新たな高等教育機関を重点的に整備して行く必要がある。
 従来、これらの諸分野の教育を担ってきた諸大学においては、それらの教育カリキュラムの密度が一様に低下しつつあることは否めない。
 このような現状を放置すれば、これらの諸分野においてリーダーシップをとり、常に新たな発展を継続的に進めることを、その双肩に期待しうる人材の確保そのものが不可能とはいわないまでも、極めて困難な状況にたち到ることは必至である。

 一方、海洋環境保全および海上防災等の施策についても、従来、事後処理的に関係部署が付随的に設置されるため、関係機関の間での連繋が不十分であり、その結果、人的かつ財政的資源が十分有効に生かされていない、また、事前の対応策が未調整のままであるうらみがあった。
 海上安全に関する国家的施策を含め、これを統合し、長期的かつ有効に展開しうる中心的な機関を創設することが重要である。


(2) 海事工学のさらなる統合とその発展を図ること。
 本稿では、船舶工学、海運工学、舶用機関工学および海洋工学を包括するものとして海事工学を位置付けたが、現状はこれら諸分野間の連繋が緊密であるとはいいがたい。
 勿論、研究者の間では、学問的情報交換や交流が行われているが、共通の基盤に立った教育・研究、さらには人材の育成についての協力関係は、ほとんど存在しないといってよい。

 わが国では、コンテナ船やLNG 船などの新船種の創成の例は極めて少ないと指摘されている。
 今後、一層のモーダル・シフトを進め、かつ、物流システムの新機軸を打ち出して行くには、船舶工学、海運工学、舶用機関工学などの間の垣根を取り除くことが肝要である。
 このようにしてこそ、海上輸送システムの安全性の一層の向上かつ効率的運用についての新たな視点が育つものと期待される。

 このような目的に適うもののひとつとして、前項に述べた船舶工学、海運工学、舶用機関工学などを統合した新たな高等教育機関の整備を位置付けることが出来るが、海事工学のさらなる統合を推進するためには、関係諸学界の将来の統合をも視野に入れた緊密な協同を可能とする場を早急に構築する必要がある。


(3) 海事工学における基本施策を討議し、その技術発展を主導する組織を速やかに作ること。
 このことは(1)ですでに部分的に言及したが、ここであらためて強調したい。
 海上輸送に係わる技術分野、海上安全および海洋環境保全の施策およびそれを支える基盤分野におけるリーディング・カントリーであるわが国は、今まで以上にこの分野におけるリーダーのひとりとしての世界的貢献が期待されている。
 しかし、その基盤をなす学問分野において、人材の確保等に重大な問題をかかえていることは前述のとおりである。

 ある学問分野や産業分野が衰退に向かうのは、それなりの必然的理由があるのであり、カンフル剤を打って強いて生きながらえさせるのは適当でなく、新たな分野を創成してこそ、その社会は持続できるとの見解もあろう。
 しかし、わが国の海事工学におけるリーダー・シップに対する現在および将来にわたる責任と期待の大きさを自覚するとき、現状の体制を改め、一層の進展を図る足掛かりとすることが、わが国の海事工学に課せられた当面の急務である。

 これに応えるべく、前項までに「新たな高等教育機関の整備」および「中心的な機関の創設」、さらには「関係諸分野の緊密な協同の場の創設」を提案したが、海事工学における教育・研究の長期的かつ整合性のとれた施策を推進する新たな組織を創設することを提案する。
 この新設の組織には、国家的視点に立った人的かつ財政的資源の適正な配分についても建議する権限を付与するものとする。

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