環境問題についての地理学からの提言


「地理学研究連絡委員会報告」


平成12年3月27日

日本学術会議
地理学研究連絡委員会


 この報告は、第17期日本学術会議地理学研究連絡委員会の審議結果を取りまとめて発表するものである。

日本学術会議
地理学研究連絡委員会

委員長 榧根勇 (日本学術会議第4部会員、愛知大学現代中国学部教授)

幹事 青木栄一(駿河大学文化情報学部教授)
野上道男(日本大学文理学部地理学科教授)

委員 阿部隆(宮城学院女子大学学芸学部教授)
石井英也(筑波大学歴史・人類学系教授)
漆原和子(法政大学文学部教授)
岡部篤行(東京大学大学院工学系研究科教授)
金窪敏知(財団法人日本地図センター顧問・北海道地図(株)相談役)
杉浦芳夫(東京都立大学大学院理学研究科教授)
砂村繼夫(大阪大学理学部教授)
田辺 裕(慶応義塾大学経済学部教授)
中田 高(広島大学文学部教授)
袴田共之(農林水産省農業環境技術研究所上席研究官)
氷見山幸夫(北海道教育大学教授)
福岡義隆(立正大学地球環境科学部教授)
山口幸男(群馬大学教育学部教授)



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目 次

1 地理学の研究領域

2 環境問題の深刻化

3 学術の動向

4 和辻哲郎の『風土』とそれに対する批判

5 オギュスタン・ベルクによる和辻風土論の批判的発展

6 脳と心の科学

7 心の形成に果たす環境の役割

8 環境倫理と「風土の倫理」

9 今後の方向

引用文献


1 地理学の学術研究領域

 地理学研究連絡委員会では、第17期の初めに「研連の学術研究領域の内容」について審議を行い、地理学の内容(定義)として次のような結論を得ている。
 「さまざまなスケールの地域を対象に、地形、気候、水文、動植物などを含む自然環境、社会、経済、都市、農村などの人文環境と地域に展開するそれらの相互関係を空間的視点から総合的に研究する学問領域。
 研究方法としてはフィールドワーク、GIS、地図・統計分析を重視し、地域計画や環境計画等の実際的問題への応用にも取り組む。」

 この地理学の定義は、まだ日本学術会議の公式見解として外部に公表されてはいないが、地理学関連学協会から選出された地理学研究連絡委員会委員が審議を重ねて到達した結論であり、地理学者の意見を代表する内容になっていると考えている。

 この定義に見られる、スケール・自然環境・人文環境・相互関係・空間的視点などのキーワードは、21世紀の人類にとっての最大の問題となる環境問題を考える上でも、欠かすことのできないキーワードである。
 なお一般的にはスケールとは、ものごとを計る尺度を意味しており、地理学でも、空間スケール以外の尺度としてもこの術語を用いている。

 特定の場所に住む人間にとっての地球環境問題とは、地球上で、さまざまなスケールで行われる人間活動に起因する自然界の変化が、複雑に相互作用をした結果として、その特定の場所で発生する問題である。
グローバルな環境とローカルな環境とは、エネルギー・水・物質の循環によって繋がっており、生物地球化学的プロセスを介して相互にフィードバックし合っている。

 地球環境問題の根本的解決は、その根底にある「人間と自然との関係性」の問題に立ち入ることなしにはあり得ない。

 環境問題の深刻化に伴って、ほとんどすべての個別学問領域(discipline)から、環境問題への接近が試みられた。
例えば社会学では、「被害者・居住者・生活者の視点」から環境問題への接近が試みられ、1992年に「環境社会学会」の創立をみている(飯島,1993)。

 環境問題については、このような個別学問領域の研究(モード1科学)の延長としての営為と並行して、領域横断的(trans-disciplinary)な「モード2科学」が成立している。

 地理学研究連絡委員会に登録している、同じく1992年創立の「日本砂漠学会」はモード2科学的な性格を有している。

 しかし、新たに設立されたこれらの学会においても、近代科学を標榜する限り、その根底にはデカルト的二元論に基づくニュートン的な世界観があるはずであり、環境はあくまでも人間から切り離された客体として研究されることになる。
ようやく20世紀も終わりに近くなって、環境破壊の原因としての人間活動のあり方を巡って、心や倫理の問題が論じられるようになったが、地理学を含めて、近代科学の枠内だけでこの問題を論じても自ずから限界がある。

 以上の事情をふまえて、自然と人間の関係について古くから研究を行ってきた地理学の立場から、20世紀の資源多消費型社会に生きた人間としての反省を込めて、ポスト近代社会における「風土の倫理」の重要性について、ここに提言を行いたい。

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2 環境問題の深刻化

 エネルギー大量消費・化学物質大量生産大量廃棄型の現代文明は、すでに地球上に深刻な事態を引き起こしている。
化石燃料の大量消費の結果として、地球は温暖化した。
 気候変動に関する政府間パネル(IPCC)は、1995年11月に地球温暖化が始まったと警告したが、その後も温暖化論争は続いていた。

 わが国では気象庁が1999年9月になって、「監視結果や研究成果に基づき総合的に検討すると、現在の気候に二酸化炭素等の増加による人為的影響が現れていることが示唆される。」と温暖化の進行を認める発表を行っている。
 環境庁は、公害問題は80年代に一応解決し、環境問題の中心は地球環境問題に移ったとの見解をとっていたが、最近になって新たにダイオキシンや内分泌攪乱化学物質などの問題が顕在化した。
 このように、環境問題が行政レベルで公に認められるまでには時間的な遅れがある。
 現代文明が続く限り、これからも環境問題は引き続き発生するものと覚悟しなくてはならない。

 環境問題とは、結果から原因をさがす逆問題である。
 そして、その原因は人間活動にある(榧根,1998)。
 そのため原因の追究は常に後追いになり、原因のもとである人間活動に対する規制はさらに遅れることになる。

環境問題は、
@逆問題を解くための基礎になる、エネルギー・水・物質の循環にかかわる科学的問題、
A環境保全・改善対策を考えるための、ゼロエミッション・リサイクル・住民活動などの技術的・政策的・市民的問題、
B自然と人間の関係性にかかわる哲学的・倫理的問題
の3つに大別できる。

 地球環境問題について、グローバルな動きを見てみると、@については気候変動国際協同研究計画(WCRP )や地球圏−生物圏国際協同研究計画(IGBP)などが実行されており、Aについては地球環境変化の人間次元の国際協同研究計画(IHDP)が実行段階に入ろうとしている。

 これらの国際協同研究やそれらと関連するその他の科学的研究による成果は、IPCCや気候変動枠組条約締約国会議(COP)に反映されて、各国の政策決定と結びつく枠組みができ上がっている。
 また、国レベル以下のスケールの研究は各国の課題とされており、環境保全のための施策や行動については、1992年のリオデジャネイロ「国連環境開発会議」のアジェンダ21等を指針として、各国で行動計画が策定されている。

 しかし、@とAの根底を貫いているBの問題については、価値観のかかわる問題でもあり、まだ十分に議論が尽くされたとはいえず、国内的にも国際的にも共通認識は得られていない。
 「持続可能な開発」や「自然との共生」を実現するためには、そのための倫理が問題にされなければならない。

 環境問題の深刻化にともない、近代自然科学の基本であったデカルト的二元論に基づくニュートン的な世界観の限界が指摘されるようになり、近代科学技術に対する疑念が生じている。
 そして科学の世界に閉塞感が漂うようになってきた(例えば、ホーガン,1997)。
 数学ではクルト・ゲーデルが不完全性定理について、物理学ではウエルナー・ハイゼンベルクが不確定性関係について論じており、ニュートン的な世界観とは異なる世界観も提示されていたが、私たちが現在その恩恵を享受している科学技術の基本は、ニュートン的な世界観で築かれたものである。

 科学(science)は客体化した自然の普遍的・客観的理解を目的としており、これまでに目覚ましい成果を挙げてきた。しかし科学それ自体は倫理ではない。
 倫理は心にかかわる問題である。
 倫理がよりどころとしてきたものは、科学的な知ではなく伝統知や宗教であった。
 その伝統知や宗教がかってもっていた力は、普遍性と客観性を重んじる科学の進歩によって次第に無力化されてきた。倫理を欠いた科学技術は暴走する危険がある。

 現在、先進工業国では価値観が金銭へと大きく傾いており、経済のグローバル化によって、国境や文化・文明の境界が薄れかけてきている。
 社会が金銭を、価値を計る唯一の普遍的なスケールとして認めてしまうと、固有な宗教や伝統知に個の倫理を求めていた時代とは異なり、このような社会の価値観の中に個の価値観はたやすく飲み込まれてしまう。
 価値観をもたない科学と、金銭という価値観が結びつくと、科学が暴走する危険性はいっそう高くなる。

 いま科学の世界に漂っている閉塞感は、科学の進歩が、科学と対になって人間社会の営みを支えるべき倫理のもとである伝統知や宗教を無力化してきたという、近代の思想の本質に由来していると考えざるをえない。

 地球に対する人間行動の倫理的基礎をどこに求めたらよいのであろうか。

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3 学術の動向

 第16・17期に纏められた日本学術会議の報告の中には、科学研究の今後のあり方についていくつかの提案が見られる。
フィールド科学(学術の動向,1巻4号)、パラダイムの転換・文化としての科学(同,2巻2号)、プログラム科学(同,3巻11号)、モデル研究(同,3巻12号)、俯瞰型研究(同,4巻1号)等の新たな提案は、この閉塞感を取り除くための具体的な方向を示唆したものと考えることができる。

 フィールド科学や文化としての科学では、決定論的モデルでは解決できない事象の研究の必要性が示唆されている。
また俯瞰型研究では、科学技術の適用が社会に生み出す負の側面を研究開始の時点で俯瞰しておくことの必要性が指摘されている。
 これらの提案は、従来までの科学研究では希薄であった科学と社会との関係の重視を強調しており、今後のさらなる展開が期待される。
 特に、俯瞰型研究で取り上げられている「負の側面」は、本報告で問題にする人間の価値観や倫理観とも関係している。

 第17期の最も重要な特別委員会に「教育・環境問題特別委員会」がある。
 教育と環境はともに人間の「心」に関係する問題である。
 1999年5月に湘南国際村で開催された「第2回IGBPコングレス」でも、米国のある科学者は、地球環境問題との関連で「心の科学」の必要性を指摘した。

 地理学は環境と人間とのかかわりを中心課題とする学問領域であるが、第7節で述べるように、教育は心の形成にかかわる重要な環境でもある。
 本報告では、日本で生まれた風土の概念を取り上げ、人間と環境とをつなぐ心にかかわる哲学的・倫理的問題について検討を加えてみたい。


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4 和辻哲郎の『風土』とそれに対する批判

 諸橋轍次の『大漢和辞典』によれば、風土とは「気候と土地の有様。風気と水土。気候と其の土地に適する農作物。又、風俗。」の意とある。
 大槻文彦の『大言海』は、「其地ノ気候、地味等。又、ソノ土地ノアリサマ。」としている。
 このような普通の意味しかもたなかった風土という漢語に、倫理的意味を付与したのが和辻哲郎である。

 和辻(1935)は風土を「人間存在の構造契機」と定義した。
 契機とは、単なる寄せ集めでない、独自の全体を構成している要素などをいう。限定的には、風土とは国家体系をもつ地域についての人間のありかたを意味する(千葉,1979)。
 『風土』で示された和辻流の地域解釈に対しては、環境決定論ではないかとの批判もあったが、和辻自身は客体としての環境(自然)と主客一体である風土(自然と文化)とを明確に区別していた。
 自然と文化に共通のベースがあることを指摘したのは、世界の近代哲学者でも和辻が最初である(ベルク,1996 ;佐藤,1999)。

 第6節で述べるように、心身二元論に基づくニュートン的世界観では心の存在を受容でき
ない。
 環境問題に関連して心の問題にまで踏み込むためには、和辻の思想の再評価が必要であると考える。

 『風土』に対しては讃辞と並んで多くの批判がなされた。和辻の解釈学に対する批判の第1に、戸坂潤に代表される唯物論哲学者からの観念論哲学に対する原理的批判がある(山田,1987)。

 批判の第2 は、和辻が試みた風土の類型についての解釈に対する異議申し立てとしてだされた。
 『風土』の述べるモンスーン、砂漠、牧場という3類型が、和辻の昭和2年(1927年)の日本からアラビア半島を経て地中海に至る船旅で得た直観に支えられていることは、すでによく知られている。
 『風土』は地域と人についての解釈学的現象学の範疇に入る著作である。
 しかし和辻が当時入手可能であった地域の現象に関する情報は、現在からみれば極めて不十分なものであり、当然その解釈にも間違いが見られることになる。
 解釈の間違いのもとにある方法論的欠陥を指摘する批判もある(内田,1999)。

 このような批判がある一方で、風土は、農業とくに自然との関係が深いアジアの灌漑農業の研究者によって、重要な概念として受け入れられた。
 例えば玉城(1974)は、「風土はたんなる自然ではなく、歴史的に形成された社会的な内容のものである」との認識で「大地と人間の歴史」を論じ、「歴史の帰結としての風土」という視点から「西欧モデルを超えて」アジアの農業を評価している(玉城,1984)。
 西欧モデルによる、マルクスやエンゲルスの「アジア的生産様式」や(本田,1966)、ウイットフォーゲル(1991)の「水力社会(hydraulic society)」などの解釈と比べてみれば、玉城の採用した風土という概念の有効性が理解できよう。

 和辻の風土性(ベルク訳、m・diance)が、マルティン・ハイデッガーの時間性からヒントを得た概念であることは広く認められている。

 風土性は空間性とともに時間性を内包している。
 風景や景観は風土の表象であり、それらには、そこに住む人々の心が投影されている。
 深刻な環境問題に直面することになった20世紀も末になって、日本古来の思想が、環境の哲学(桑子,1999)や倫理の基礎(佐藤,1999)として再評価されようとしているのは、風土の概念が内包している歴史的・地理的多様性の重要性によると考えられる。

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5 オギュスタン・ベルクによる和辻風土論の批判的発展

 オギュスタン・ベルクは、日本語の解読能力をもつ、日本でフィールド調査経験を重ねたフランスの地理学者である。
 ベルク(1988)は二元論的に分けられた主体(sujet)と客体(objet)とをつなぐ概念として、通態(trajet)を考えだした。
 ベルクによると、環境世界は時間と空間を通態化(trajection)し、風土(訳語としてはフランス語のmilieu 、ドイツ語のQkumene)は歴史と環境(自然)を通態化した概念である。

 ベルク(1996)は『風土』について、風土という概念を生み出した和辻の独創性を高く評価しつつも、和辻が自己の主観性と、風土という主体の主観性とを取り違えた点を批判している。
 そして『風土』の批判的解読を経て、環境にかかわる倫理としての「風土の倫理」の重要性に行き着いた。
 第8節で述べるように、ベルクによれば「環境倫理」という用語は誤って用いられたものであり、それは「風土の倫理」でなければならない。

 二元論に基づく近代は、環境問題に象徴されるように、私たちの人間性を損なってきた。
近代を超えるには、主体と客体の通態化が必要になる。

 風土の概念の重要性の主張は、二元論以前の、自然主義的な日本的母型への回帰を意味してはいない。
 逆に、地球上のすべての人間にとって必要になるであろう「ポスト近代の倫理」として「風土の倫理」を提言することにある。
 風土の問題は本質的に倫理の問題である。私たちの義務は、私たちが人間的に生きるに値する場所を再創造することである。
 人間の居住空間が全地球表面にまで拡大した現在、私たちには「風土の倫理」を発展させて、地球が風土であるように保証する義務がある。


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6 脳と心の科学

 倫理は心にかかわる問題である。
 倫理を考えるには、科学の最先端が脳や心をどこまで解明しているかについて理解しておく必要がある。
 そこで最新の著書から、本報告にとって重要と考えられる文章のいくつかを、次にそのまま引用してみる。

 ・心についての見解はまだ統一されていない(生田,1999)。

 ・脳が、心の宿る臓器であること、この点についてはほぼ間違いがない。/あるニューロンの発火パターンが脳の中に生じた時、それに対応する心の中の表象は一つに決まる。/クオリアは、これ以上分割できないという私たちの心の中の表象の構成要素である。/心が物質とは異なる実在であるという素朴な二元論は、否定されなければならない。/確かに、ニュートン的な世界観の中には、心の存在を受容することができない(茂木,1999)。

 ・心をもつ私たちの生命システムは、物理・化学的な意味だけでなく、心理・社会的な意味でも、集団、社会、文化、世界、そして宇宙へとつながりををもち、これらの環境と独立では存在し得ない(神庭,1999)。

 ・環境と脳は、身体の構造を介してかかわります。そのかかわりは、知覚と行動という二つの道筋を通した、過去から現在におよぶかかわりです。/脳が環境により適合するように自らを変え、その結果、知覚系と行動系が環境に対して完璧に適応的なものとなる。/心的なものと身体的なもの、身体的なものと世界的なものとは、ゆるやかに連続しているばかりか、鋭敏に反響し呼応します。少しおおげさないい方をすると、デカルト以来の心身二元論の世界観の対極に位置する世界観ともいえるでしょう(下條,1999)。

 ・意識を彩るこのような質は特に感覚質(クオリアqualia)とよばれる。/心的なものを何らかの意味で物的なものとして理解しようとする物的一元論の可能性を探りたい(信原,1999)。

 以上のように、脳や心の科学の最先端にある複数の研究者が、各人が考えている一元論の内容はそれぞれ異なるとしても、心身二元論では心の存在を受容できないと述べていることは、環境についての倫理を考える上で極めて重要である。



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7 心の形成に果たす環境の役割

 前節で引用した著書によると、心と環境との関係は、次のように整理できるのではないであろうか。

 心は脳に宿るなにかではあるが、物質としての脳そのものではない。
 心は、脳と環境との身体(五感)を介した相互作用によってつくられる。
 脳にとっての環境とは、身体を含む脳以外のすべてである。
 脳と身体と心を合わせた個人にとっては、自己以外のすべてが環境である。
 その環境は、気候・地形・水・生態系などの自然的環境と、家庭・教育・文化などの社会的環境からなる。
 廣松(1986)はこれら両者と並べて、観念的に構築された世界をも環境とし、第3 の環境として「表象的環境」を挙げている。
 これらの環境と身体との相互作用が経験である。環境との相互作用で得られるクオリアは、経験した人にのみ知られる。
 経験によってつくられた心をもつ人間存在は、個別的であると同時に社会的である。
 心は遺伝子と環境の双方に由来する「来歴」をもつことになる。

 心身論について養老(1997)は、素朴な心身二元論は一神教のキリスト教世界で強く、仏教世界ではそれと正反対の前提をとるとし、「おおかたの日本の科学者は、本音を聞くことができるとしたら、一元論であることが判明するはずである。
 これはおそらく西洋と日本の文化的な違いであろう。」と述べている。
 養老自身も心身一元論である。
 一元論はさらに心身一元論、唯心一元論、物的一元論などに分かれる。脳や心の科学者は、日本では物的一元論を志向しているようであるが、養老の指摘のように、キリスト教世界には二元論志向も依然として見られる(例えば、ペンローズ,1999)。

 母国語は、遅くとも7 、8歳までの言語環境と経験で決まる。
 美や恐怖などのもとになる原体験も幼児期の経験が主である。
 成長期における自然や文化との触れ合いが重視されるのは、豊かさを持つそれらのフィールド空間から脳に対して発信される多元的な情報が、豊かな心の形成に役立つからである。
 人の感受性・倫理観・社会性などは、その人が十代までおかれた環境と経験で決まると考えられる。

 まだ「心の科学」はでき上がっていないが、いずれの心身論に拠るとしても、より良い環境を志向する心を育てるには、身体を介して脳と相互作用をする環境それ自体を良くしなくてはならない。
 「風土の倫理」が必要になる所以である。

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8 環境倫理と「風土の倫理」

 環境倫理学(environmental ethics)は、地球規模での環境破壊が問題になり始めた70年代、アメリカを中心にエコロジー運動の哲学的・倫理学的基礎の解明をめざして生まれた思想である。
 これは
@自然の生存権の問題(人間だけでなく生物の種・生態系・景観などにも生存の権利があるので勝手にそれを否定してはならない)、
A世代間倫理の問題(現在世代は未来世代の生存可能性に対して責任がある)、
B地球全体主義(地球の生態系は開いた宇宙ではなくて閉じた世界である)
という3つの基本主張をもつている(加藤,1991)。

 心身論の立場から考えてみると、この思想は明らかに二元論に立っている。
 Bは地球環境問題理解の基本認識になっている地球の有限性と同義であり、議論の余地なく容認することができる。
 しかし、@は客体として分離した自然自体の問題である。
 「野生の持つ基本的な価値」を主張した、環境保護思想のバイブルとも言われている、1948 年発行のアルド・レオポルド(1997 )の段階では、主客分離の論理的帰結は今日ほど鮮明ではなかった。
 しかし、この思想の行き着いた先がディープ・エコロジーである(フェリ,1994;マーチャント,1994 )。
 自然の生存権の主張は、最終的には人間の存在自体を悪と規定してしまうことになる。
 Aは基本的には地球資源の配分問題であるが、私たちは現在世代の南北間倫理の問題すら解決できないで苦しんでいる。
 このように整理された「環境倫理学」からは、近代への疑念を感じとることができない。

 ベルク(1996)は「20世紀は環境と理性とヒューマニズムの複合的な世紀であるのかもしれない。
 近代の築き上げた世界はもはやあまり将来に見込みのないものとなっている。」と、近代化の限界について論じたあとで、エコロジーについても、「生態学的な全体論(ホーリズム)は見てのとおり人間主体の問題を抹消してしまう。」と、環境保護運動(エコロジー)が「ファシズムの命題に行き着く」危険を指摘している。

 ベルクが主張する「風土の倫理」は、すでに見たように人間の主体性から発している。
 自然と人間とのかかわりによって文化や文明が生まれた。
 そこから歴史性と地域性をもつ風土のおもむきが生まれた。
 おもむきをもつ風土のなかで人間の感受性が育てられ、そのことが美や秩序や伝統に価値をおく心のもとになった。
 「風土の倫理」は人間存在と地球との関係のあり方にかかわる倫理である。

 下條(1999)は、ヒトには元来、秩序や因果を発見しようとする強い認知傾向があるが、それはそれらを見落とすと生物の生存にとって致命的になりかねないからであろう、と述べている。
 大脳を発達させた古代人は、真・善・美という宗教的概念を発見した。
 ヒトにとって秩序や因果の発見が生存にとって欠かせなかったように、ポスト近代の人間は、真・善・美を風土の問題として再発見する必要があるのではないであろうか。


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9 今後の方向

 最後に、第2節で述べた環境に関する3つの問題について若干付言しておきたい。

 @の科学的問題については、すでに多くの大学で環境関連のコースが設けられている。
 「風土の倫理」についても、大学教育の中でさらなる検討が行われることを希望する。
 研究面でも、研究者は個別学問領域のいかんを問わず、多方面から環境問題に接近している。
 しかし、AやBの問題を含めて、環境に関する研究を既存の個別学問領域の枠内でどのように評価するかについては、必ずしも意見の一致を見てはいない。
 研究者の業績評価の問題として今後の検討が必要であろう。

 Aの技術的・政策的・市民的問題については、循環型社会の構築を目指して、検討が始まったばかりである。
 私たちはこの問題を、最終的には、都市計画や国土計画、さらには地球計画の問題にまで発展させなければならない。
 そして、そのような計画を実現させるためには、行政・市民・企業・学識者(専門家)の連携による地域活動のあり方が、重要な 問題として出てくるであろう(環境庁,1998)。
 政治の果たす役割も重要である。

 Bの哲学的・倫理的問題については、「風土の倫理」の問題として、本報告でそのあらましを述べた。
 脳科学の発展によって、どのような「心の科学」が生まれるかは、現段階ではまだ予想できない。
 ただし、文系と理系とに画然と区分されていた学術の世界が、融合の方向に向かうことは必然であろう。
 そのための研究者自身の自己改革も必要である。

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[引用文献]

飯島伸子編:環境社会学,有斐閣,1993.
生田哲:脳と心をあやつる物質,講談社,1999.
内田芳明:和辻哲郎『風土』についての批判的考察,思想,1999年,第9号.
ウイットフォーゲル,K.A.(湯浅赳男訳):オリエンタル・デスポティズム−専制官僚国家の生成と崩壊,新評論,1991.
加藤尚武:環境倫理学のすすめ,丸善ライブラリー,1991.
神庭重信:こころと体の対話−精神免疫学の世界,文春新書,1999.
榧根勇:環境問題と地域計画,環境情報科学,第27 巻,第2 号,1998.
環境庁:健全な水循環の確保に向けて〜豊かな恩恵を永続的なものとするために〜,健全な水循環の確保に関する懇談会報告,環境庁水質保全局,1998.
気象庁:近年における世界の異常気象と気候変動,気象庁,1999.
桑子敏雄:環境の哲学−日本思想を現代に活かす,講談社学術文庫,1999.
佐藤康邦・清水正之・田中久文編:甦る和辻哲郎−人文科学の再生に向けて,ナカニシヤ出版,1999.
下条信輔:<意識>とは何だろうか−脳の来歴、知覚の錯誤,講談社現代新書,1999.
玉城哲:風土の経済学−西欧モデルを超えて(増補新版),新評論,1984.
玉城哲・旗手勲:風土−大地と人間の歴史,平凡社,1974.
千葉徳爾・籾山政子:風土論・生気候,朝倉書店,1979.
信原幸弘:心の現代哲学,勁草書房,1999.
廣松渉:生態史観と唯物史観,ユニテ,1986.
フェリ,L.(加藤宏幸訳):エコロジーの新秩序,法政大学出版局,1994.
ベルク,A.(篠田勝英訳):風土の日本 自 然と文化の通態,筑摩書房,1988.
ベルク,A.(篠田勝英訳):地球と存在の哲学−環境倫理を越えて,ちくま新書,1996.
ペンローズ,R.(中村和幸訳):心は量子で語れるか,講談社,1999.
ホーガン,J.(竹内薫訳):科学の終焉,徳間書店,1997.
本田喜代治編訳:アジア的生産様式の問題,岩波書店,1966.
マーチャント,C.(川本隆史ほか訳):ラディカル・エコロジー,産業図書,1994.
茂木健一郎:心が脳を感じるとき,講談社,1999.
山田洸:和辻哲郎論,花伝社,1987.
養老孟司:日本人の身体観の歴史,法蔵館,1997.
レオポルド,A.(新島義昭訳):野生のうたが聞こえる,講談社学術文庫,1997.
和辻哲郎:風土人間学的考察,岩波書店,1935.


「学術の動向」(日本学術協力財団発行)所載の引用文献

志村博康:フィールドワーク、フィールドリサーチからフィールド科学へ,第1巻,第4号,1996.
特集:パラダイムの転換〜各学問領域の討論から〜,第2巻,第2号,1997.
吉田民人:大文字の第2次科学革命−〈物質エネルギーと法則〉から〈情報とプログラム〉へ−,第3巻,第11 号,1998.
岩崎俊一:新たなる研究理念を求めて,第3巻,第12号,1998.
吉川弘之:年頭所感俯瞰型研究プロジェクト,第4巻,第1号,1999.

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