わが国における微生物・培養細胞カルチャーコレクションの
あり方に関する提言

−生物資源等に関わる知的基盤整備をめざして−

「微生物学研究連絡委員会報告」


平成12年3月27日

日本学術会議
微生物学研究連絡委員会


 この報告は、第17期日本学術会議微生物学研究連絡委員会の審議結果を取りまとめ発表するものである。

委員会構成員リスト

委員長 三輪谷俊夫(第6部会員、大阪大学・岡山県立大学名誉教授)

幹事 篠田純男(岡山大学薬学部教授)
宮治誠(千葉大学真菌医学研究センター教授)
鈴木益子(仙台真菌学研究所研究員)

委員 荒井澄夫(久留米大学医学部教授)
竹田美文(国立感染症研究所長)
道家紀志(名古屋大学大学院生命農学研究科教授)
○永井美之(東京大学医科学研究所ウィルス感染研究部教授)
西村和子(千葉大学真菌医学研究センター教授)
浜田雅(微生物化学研究所菌学部長)
○辨野義巳(理化学研究所微生物系統保存施設室長)
○本田武司(大阪大学微生物病研究所教授)
三瀬勝利(国立医薬品食品衛生研究所衛生微生物部長)
南澤究(東北大学遺伝生態研究センター教授)
室岡義勝(大阪大学大学院工学研究科教授)
山崎眞狩(日本大学生物資源科学部教授)
吉川昌之介(日本歯科大学教授)
◎渡辺信(国立環境研究所生物圏環境部長)
(草案作成委員○及びその代表者◎)

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わが国における微生物・培養細胞カルチャーコレクションのあり方に関する提言
ー生物資源等に関わる知的基盤整備をめざしてー


 地球上に存在する生物との健全な共生とその持続的利用の可能性を拡大するライフサイエンスとバイオテクノロジーは、21世紀における人類の健康・福祉の向上、環境保全及び資源確保、経済社会及び産業構造の高度化に多大な役割を果たすものとして期待されているが、その進展に必要な生物資源を国を越え、世代を超えて確保し、活用していくためには「中核的微生物・培養細胞カルチャーコレクションセンター」が必要であり、その早期設立を提言するものである。

微生物・培養細胞の確保に係わる国内外の情勢と問題点:

1.地球上には3000万種以上の多種多様な生物が存在していると推定されており、さらに種内の遺伝的多様性も大きい。

 これらの生物は人間社会の存立を可能とする自然的基盤を構築するとともに、様々な用途に利用され人間生活の全般にわたって深いかかわりをもっている。

 人類はまだその数パーセントしか認識していないにもかかわらず、地球上における生物種の減少と資源の枯渇が進行し、人類生存の基盤そのものをゆるがす深刻な問題となってきている。

 21世紀は「生物科学の世紀」と言われ、生物が潜在的に保有する資源としての経済価値ははかりしれない。
 特に微生物学の分野において先導的な研究・開発を行ってきたわが国においては、地球上にはぐくまれている各種の微生物種やその遺伝子を将来にわたり安定した生物資源として確保し、活用していくことが国家としての重要な資源確保戦略となってきている。


2.一方で、人類は外から侵入する病原菌と戦うため様々な防御・攻撃の仕組みを備えてきた。

 20世紀は微生物感染症に対して、次々と成果をあげた画期的な時代であった。
 しかし、微生物感染症は人類にとって依然として大きな脅威となっている。
 エボラ出血熱や腸管出血性大腸菌感染症などの新興感染症、制圧されかかった結核などの再興感染症、薬剤耐性菌による感染症、感染に関する免疫弱者(易感染宿主)の増加に伴う日和見感染症、国際化による渡航者の増大やペットや家畜の輸入増加に伴う輸入感染症等が増加してきており、21世紀にはそれらに対する新たな対策を講ずるために、病原微生物のリファレンス株の体系的整備が必要となってきている。

 さらに、病原菌の感染によって引き起こされるホスト細胞あるいは組織で起こる生物化学的変化、構造的崩壊、遺伝子の分子レベルでの改変などの詳細な機構解明は、医薬品開発へ繋がるのみならず、生命発生、生命進化などの解明の手段となっている。


3.病原・非病原生物をとわず、新たに発見された生物の機能は特許として申請されることが当たり前となってきており、それ自体莫大な利益を生む可能性が出てきている。

 1993年に発効された生物多様性条約には生物資源の原産国の主権を認めた枠組みが設けられており、今後海外生物資源のアクセスに対して戦略的対応が必要となってきている。
 欧米諸国では、新たな生物資源確保戦略を構築するために、生物資源の権利主張の動きや欧州生物資源情報ネットワーク(CABRI計画)等、生物資源の囲いこみを巡る動きを活発に展開してきている。
 今後、海外の生物資源へのアクセスは個別におこなうことは困難となり、公的なチャンネルを通じなければならない状況となることも十分予想される。
 このような状況へのわが国としての対応は全くなされていない。


4.わが国における微生物や動植物培養細胞に関するカルチャーコレクションは100年の歴史があり、わが国ならびに国際的にも基礎生物科学、生物産業、感染症対策に多大な貢献をしてきた。

 しかしながら、微生物・培養細胞の系統保存機関は最も大きな機関でさえ人員は16名であり、ほとんどの機関は専任のスタッフが0-2名程度で、資金不足の状態で運営されている。
 ATCC(米国)が約250名、DSM(ドイツ)が63名、IMI が71名、CCRC(台湾)が50名、KTCC(韓国)が約50名のスタッフを擁していることを考えると、わが国における微生物・培養細胞カルチャーコレクションの整備は諸外国に比べて、大幅に立ち遅れている。
 このままでは、わが国におけるライフサイエンスとバイオテクノロジーはそれらの基盤整備が貧弱のままに展開せざるを得ないという、極めて不健全な状況におちいる。
その結果、これらの分野において100 年の歴史を誇ってきたわが国の国際的地位が低下し続けていくことが強く懸念される。


5.自然界に生息する生物を系統だてて分離培養し、分類同定し、保存し、品質を管理し、提供するためには培養・保存技術の高度化に係わる人材、分類・同定にかかわる人材の確保が不可欠である。

 しかしながら、わが国の大学等教育機関ではこのような人材を育成する研究室が極めて少なくなってきている。
生物を総合的にみる観点から培養・保存学、分類学の研究者を育成するための特別な人材育成機関が必要である。


6.21世紀における人類の健康・福祉の向上、環境保全、食糧生産及び資源確保、経済社会及び産業構造の高度化を実現するために、ライフサイエンスとバイオテクノロジーの一層の推進が不可欠なものである。

 これらの分野の将来的動向を洞察し、これらの先導的基盤を形成するものとしての微生物・培養細胞の確保と活用体制の戦略的体系的整備が重要であることを認識するならば、リーダーは専門性をもちながらも他の分野についても豊かな知識を有し、社会性をかねそなえた人材が必要となってくる。
 わが国の大学院教育は狭い専門知識をもつ人材の育成には長けているが、欧米のように広い知識と見識を有した人材の育成にはそぐわない体制となっている。
 このような指導的役割を担える人材育成も必要とされる。


中核的微生物・培養細胞カルチャーコレクション・センターの体制と機能:

7.微生物や動植物培養細胞をめぐる情勢は、まちがいなく従来のわが国の対応を越えた新しい体制を要求している。

新しい体制は、

1)インセンテイブと十分な研究基盤の維持と社会的開放性、

2)国際的規制の枠組みで微生物・培養細胞を確保するために必要な国際協力、

3)国際的視野での適切な行動戦略・計画に基づき微生物・培養細胞の確保、保存及び利用に必須の科学技術を開発するために、自然科学と社会科学との真に総合的かつ学際的な行動、

4)ライフサイエンスやバイオテクノロジーの研究機関及び他の微生物・培養細胞保存機関とのネットワーク構築、を規範としたものでなければならない。


8.したがって、関連する各省庁が協力して、次の5 つの機能を有する中核的微生物・培養細胞カルチャーコレクション・センターを設立する必要がある。

1)サービス機能

 自然界から多くの微生物あるいは動植物の細胞を分離し、培養株として確立することがライフサイエンスやバイオテクノロジーの発展にとって必須となる。
 本センターは、広範な微生物種あるいは動植物細胞を系統立てて分離培養し、分類同定し、品質を保証し、保存し、再生産し、提供する、という基本的なサービス的役割をもつ。
 微生物、動植物細胞、ウィルス、DNAクローン等生物資源の受託、品質保証・管理、保存、分譲、情報提供、同定コンサルタント、トレーニング、知的財産権問題への取り組み等、微生物の保存・活用のためのサービス業務を行うことが最も重要とされる。

2)研究機能

 微生物・培養細胞カルチャーコレクションセンターが将来に渡り求められる生物産業や病原菌感染予防・対策調査研究あるいは基礎学術研究等に微生物の分離等のサービスを提供するためには、これらの研究と密接な関係を持ち、高度な新技術開発に積極的に関与していかねばならない。
 ライフサイエンスやバイオテクノロジーの双方の発展のためには、もっとはるかに多くの微生物を分離できるあらたな分離培養技術の開発を行い、先端的な分類研究を実施し、基本的生理・化学特性を明らかにする等、先導的基盤研究を展開する必要がある。
 また、これらの研究・業務を円滑に、かつ先導的に推進するためにインフォマテイクス(情報学)においても高度な研究が行われ、それによって微生物・培養細胞に係わる情報基盤を整備することが重要である。

3)人材育成機能

 広範な種を系統立てて安全に培養し、同定し、そして保管することができる幅広い専門知識及び技術を備えた人材を育成する。
 また、ライフサイエンスとバイオテクノロジーの将来動向を適切に把握し、先導的な微生物・培養細胞確保計画を立案し、指導できる人材を育成する。
 特に、培養・保存学、分類学の研究者が減少し、消滅の危機に瀕していることから、大学等教育機関において微生物の分離培養、分類・同定を行える人材を育成することが困難となっている。
 また、専門性のみならず、自然科学・社会科学についての豊かな知識と見識をもち、社会性を備えた人材の育成も必要である。
したがって、ここでは単なるトレーニングにとどまらず、大学と連携し(学位授与権を有し)、培養学者、分類学者の育成センターとしての機能をも果たす必要がある。

4)ネットワーク推進機能

 国内外の他の関連する機関及び大学との横断的共同研究や情報交換、微生物や培養細胞の交換及び共有等ネットワーク推進の先導的かつ中心的役割を果たす。
 すなわち、国際的なネットワークにおいて他国機関に伍して活動する。
同時に、生物多様性条約締結後の生物資源をめぐる新たな世界戦略下においては、巨大な未知の資源としての生物をわが国の資産として確保するために、国際的視野で積極的に情報収集・発信活動を行う必要がある。

5)企画立案機能

 人類が直面している微生物や培養細胞等生物資源に係わる問題には、関係する諸問題の相互関係の認識、関係する諸学問分野への寄与に対する先見性、諸外国における動向等を十分に考慮した戦略的取り組みが必要である。
 そのため、国際的視野で微生物・培養細胞カルチャーコレクション整備・活動戦略をたて、それに基づく調査研究を企画立案する機能を果たす必要がある。


9 .OECDのWorking Party for Biotechnology において、微生物・培養細胞等生物資源センターのあり方について検討が始まっている。

 21世紀には国際社会においてわが国が指導力を発揮しつつ、人類の生存の長期的安定性の確保にむけて、生物との共生とその持続的利用という目標にどれだけ迫り得るかが、培養生物を巡る問題の核心となってくるであろう。

 国内外にむけて、わが国が積極的な生物資源整備戦略を推し進めるには、まず、各省庁の協力と強い連携のもとで、国内の有力なカルチャーコレクションを結集し、統合し、さらに規模を一層拡大し、上記の機能を十分有した「中核的微生物・培養細胞カルチャーコレクションセンター」を発足させることが必要である。