21 世紀に向けた
原子放射線の総合研究体制と影響研究の推進について



「核科学総合研究連絡委員会 放射線科学専門委員会報告」

平成11 年9 月20 日

日本学術会議
核科学総合研究連絡委員会放射線科学専門委員会


 この報告は、第17 期日本学術会議核科学総合研究連絡委員会放射線科学専門委員会の審議結果を取りまとめて発表するものである。

日本学術会議
核科学総合研究連絡委員会 放射線科学専門委員会

委 員長 佐々木 正夫(京都大学放射線生物研究センター教授)
幹 事 稲葉 次郎(環境科学技術研究所部長)
籏 野 嘉彦(東京工業大学大学院理工学研究科教授)
母 里 知之(東海大学医学部教授)
委 員 柴田 徳思(高エネルギー加速器研究機構放射線科学センター長・教授、
日 本学術会議第4 部会員)
大 西 武雄(奈良県立医科大学教授)
小 野 哲也(東北大学医学部教授)
河 内 清光(放射線医学総合研究所研究総務官)
草 間 朋子(大分県立看護科学大学学長)
巽 紘一(放射線医学総合研究所部長)
中 村 尚司(東北大学サイクロン・ラジオアイソトープセンター教授)
野 村 大成(大阪大学医学部教授)


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21 世紀に向けた原子放射線の総合研究体制と影響研究の推進について

日本学術会議
核科学総合研究連絡委員会 放射線科学専門委員会

目 次

概 要

1.はじめに

2.原子放射線研究の意義と重要性

3.大学を中心とした原子放射線研究推進の経緯

4.放射線影響研究および研究体制の現状と問題点

5.原子放射線研究の重要課題

6.研究体制の整備

7.原子放射線とその影響に関する教育

8.提言

9.おわりに

10.附属資料


日本学術会議
核科学総合研究連絡委員会 放射線科学専門委員会
21 世紀に向けた原子放射線の総合研究体制と影響研究の推進について

概 要

 発展しつつある経済・文化に対応する長期エネルギー需給と地球をとりまく環境問題の展望を直視したとき、原子力エネルギーの開発・利用は将来ますます重要な位置を占めることが予想される。原子力先進国である我が国は、原子力を安定かつ安全なエネルギー技術として成熟させ、さらに高度な原子力エネルギー利用技術と合わせ、安全確保の基本理念を確立するとともに、国際的にリードし、人類の福祉に貢献できる説得力のある堅固な学術的基盤を形成しなければならない。

 21 世紀において人類との関わりで問題となる主たる放射線は低線量並びに低線量率の放射線であると想定されている。その主たる線源は、原子力のエネルギー利用、放射性廃棄物、医学診断および核兵器等に由来する放射線などが考えられる。地球上の生命体はその誕生以来低レベルのいろいろな放射線に出会い、その影響の下に進化してきた。

 従って低線量放射線影響の問題は生物・生命原理が基底にあり、従来のような高線量放射線の生物影響からの単純な外挿では解けない面が多い。線量概念も高線量域での吸収線量の概念が適用されず、低線量影響の解明には、荷電粒子を対象としたエネルギー付与の微視構造と素線量の概念、分子反応の物理・化学的素過程、放射線認識とその情報伝達、生体防衛の基本機構など、生命体システムに基盤を置いた量子論的理解と生命科学を融合した新しい研究戦略が要求される。

 一方、作用源としての放射線研究の側に立てば、低レベル放射線・放射能の環境動態、環境影響評価、放射性核種の体内挙動など環境放射能研究や保健物理研究に求められる開発要素の高い新しい課題が多い。このように、一種の巨大科学とまで言われる低線量放射線影響の問題は、社会的にも学術的にも21世紀における重要課題とされ、その解明に向けての総合的研究体制の推進が重要である。

 すでに欧州共同体では、チェルノヴイリ原子力発電所事故による環境汚染を契機に低線量放射線影響の評価研究が活発となっている。一方、アメリカ合衆国政府は1998 年に低線量放射線影響の基礎的研究に関する10 か年プロジェクトをスタートさせた。そこでは、ゲノム生物学も巻き込んだ生命科学を基盤とした放射線影響の基礎研究が推進され、放射線影響に対する正確な知識を引き出すとともに、国の原子力政策にも反映され、国民の合意形成の新しい学術的基盤が形成されるものと期待されている。

 日本学術会議は、原子力開発が人類にとって大きな寄与をするものであると同時に、内在する放射線の危険性からいかに人類を守るかという重大な側面を持つことを強く認識し、これまでにも必要な勧告、声明、要望等を行ってきた。これにより、大学を中心とした研究基盤は徐々に整備されてきたが、科学研究費の制約、大講座制の導入、生命科学の先端化に伴い分極化の傾向にある。21 世紀に向けて放射線影響の問題が低線量影響という未開拓の新しい局面を迎えるとき、放射線影響研究で世界をリードする我が国においても、関連する研究の研究体制と研究支援体制を整備し、重点的かつ早急に取り組む必要がある。

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1 .はじめに

 19 世紀の終わりから20 世紀初頭における放射線、放射能および原子核エネルギーの発見は20 世紀を先導する多くの先端科学技術を創出し、物理学、化学、工学、生物学、医学、薬学、農学など多くの学術分野をはじめ、医療、産業、文化の高度化の原動力となって社会・経済の繁栄と福祉に貢献してきた。物質の根元である原子・素粒子の特性をその研究技術基盤に置き、原子放射線を対象とする放射線科学は、20 世紀に生まれた新しい普遍的巨大科学と言える。この放射線科学は、その先端性ゆえに学際性と波及性を特徴とし、その発展の過程でさらに次々と新しい科学技術を生みだしてきた。

 しかし、原子の破壊・融合・運動制御などの原子操作から造り出される量子エネルギーには、同時に原子や分子を破壊する潜在力を持つという二面性がある。X 線の発見(1895 年)は疾病の診断技術に革命をもたらしたが、同時に生体に対して傷害作用を有することもいち早く判明した。しかし、この傷害作用を逆に利用することによってがんなどの放射線治療技術や放射線育種技術が開発され、またこの物質改変作用が多くの産業技術の開発ももたらした。

 放射能の発見(1896 年)と人工放射性同位元素の創出(1934 年)はトレーサー技術を生みだし、物質挙動の動的解析に飛躍的展開をもたらし、生命科学の発展にも大きく貢献すると共に、環境動態解析、地質動態解析等の新しい技術基盤となり、また医療の面では代謝機能診断、疾患の小線源治療技術を可能としたが、一方では、環境汚染源としてヒトの健康や生態系への負の要因となってきた。

 また、核分裂・核融合反応の発見(1938 年)は、これにより化石燃料に代わる莫大なエネルギー解放の道が開かれたが、不幸なことにそれは広島・長崎の原爆(1945 年)およびビキニ環礁での水爆実験(1954 年)という形で実証され、これを契機として原子放射線は人類にとって新しい意味を持つようになった。原子力利用の中心は学術研究およびエネルギー開発など平和利用に向かったが、チェルノブイリ原子力発電所事故(1986 年)は地球規模の環境汚染を引き起こし、放射線はある限られた人々だけでなく、その利益と損失は国民全体、人類全体に関係するものであることを改めて認識させた。原子放射線は、それが物質の根元を出発点としているところから、開発と利用に無限の可能性を持つと共に、生命体に対してもその系を乱すものとして働く。

 しかし同時に、その放射線の生物作用そのものが放射線の医学・生物学利用の学術的基盤となっているという認識も重要である。21 世紀に向けて放射線利用技術は生命科学や物質科学にますます深く浸透し、高度化することが予想される。このように、本質的に両刃の剣である原子放射線の研究に対し、客観性と自主性の高い俯瞰的総合学術研究体制の必要性と重要性が指摘される理由がそこにある。影響研究も含めた原子放射線研究が利己的な政治・経済の道具として用いられる限り、社会的・国民的合意は得られないばかりか、人類に対する科学の恩恵も保証されない。

 日本学術会議核科学総合研究連絡委員会放射線科学専門委員会では、21 世紀における放射線影響研究を含む原子放射線の研究体制について検討してきた。ここにその現状を分析し、原子放射線研究における高い学際性という最大の特徴を踏まえて新しい世紀のニ−ズを見据えた研究基盤と研究体制の具体的推進策について提案するもの
である。

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2 .原子放射線研究の意義と重要性

 原子力エネルギ−の利用開発、放射線および放射性核種の高度利用開発に大きな期待が寄せられる21世紀を間近に控え、原子放射線の利用技術の高度化および放射線の生命体に対する作用の機構と影響発現の理解はますます重要となってくる。原子放射線の線源と種類は多様である。

 加えて、加速器科学の発達は未開の領域であった真空紫外線から軟X 線に至る低エネルギー光子の科学とその利用技術を開拓し、またエネルギーの制御された中性子、陽子、中間子、重荷電粒子の高度利用を現実のものとしてきた。これらの新分野の開発は新しい科学の創出の基盤となり、また人類に新しい利益をもたらす無限の可能性を約束するものである。

 一方、最近の生命科学の進展により、放射線の生命体に対する作用機構の概念も大きく変遷してきた。すなわち、放射線生物作用も、生体高分子のダイナミズム、分子間機能制御、ゲノム統御、生体応答機構など、生命体システムを背景に理解されなければならない段階にきている。

 これにより、多様な放射線の影響に対する説得力のある新しい学術的基盤の形成が期待され、また放射線による遺伝子制御など新しい利用技術が期待される。来るべき21世紀に放射線を真に人類の福祉に役立てるためには、放射線の挙動・作用原理の新しい理論、利用技術の高度化に基づく放射線利用と放射線影響の科学的根拠をより堅固なものとするとともに、放射線が生命にどう働き、生命体が放射線にどう応答するかという生命科学の根本問題を有機的に統合した「放射線システム生命科学」とでも言うべき放射線影響の新しい学術的基盤の形成が必要である。

 現実には、低レベル放射線の人体影響、自然放射線と生命進化、人工的につくりだされる重荷電粒子、生命体がその進化の過程でかって経験したことのない宇宙環境での放射線生物効果など、生命科学を接点とする新しい問題が山積している。これらは、現代の原子力利用開発、放射線利用開発、宇宙開発等が抱える安全確保の利用理念(セーフティー・カルチャー)の形成とも直接関係するものである。

 多くの分野に横断的に関係する原子放射線研究の果たす役割は大きく、放射線物理学、放射線化学、放射線生物学、放射線医学などの基礎科学に加えて、放射線安全工学、保健物理学などの実践的な科学を結集した総合的学術体系の構築が必要である。

 原子放射線研究を未来の輝ける科学として成熟させるためには、従来のような個々の科学技術や専門知識によるフロンティア精神では限界があり、社会原理、生物・生命原理、量子科学などを視野に入れたより普遍性を持つグローバルで体系的な研究体制の構築が求められる。

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3 .大学を中心とした原子放射線研究推進の経緯

 唯 一の原爆被曝国である我が国における原子力研究と影響研究は、科学における潜在的な政治性と現代政治に要求される高い科学性という政治と科学の原理の狭間でユニークな発達を遂げてきたと言える。

 我が国における放射線影響研究はビキニ水爆実験による第五福竜丸の遭難および海洋汚染(1954 年)を契機として始まった。奇しくも時を同じくして我が国最初の原子力予算が成立した。多くの国において原子力研究の主流が軍事目的であった当時、原子力平和利用を推進するための基本姿勢は、科学としての原子力研究を正しく座標軸に乗せ、健全な基礎研究の土台の上に開発が進められ、内在する放射能の危険性からいかにして人類を守るかという利用と安全を念頭に、基礎研究の重視、人材の養成による研究・開発を進めるべきであることの認識が重要であった。我が国の科学者の内外に対する代表機関である日本学術会議がこれに果たしてきた貢献は大きい。

 日本学術会議は、「放射線総合研究体制の強化について」(1958 年11 月勧告)、「放射線影響研究の推進について」(1968 年11 月勧告)、「放射線影響研究における研究・教育体制の整備について」(1980 年5 月伝達)、「大学関係を中心とした原子力基礎研究並びに放射線影響研究の推進について」(1983 年11 月勧告)等を、国に対して勧告あるいは要望をしてきた。

 また、文部省学術審議会も、文部大臣への建議「大学における原子力研究の将来計画について」(1973 年)の中でも「影響面での研究は、原子力の開発利用研究と表裏一体の関係にあり、極めて重要な研究であるにも関わらず、いわゆる消極的研究であるため積極面に比べて研究体制が弱体である」とし、影響研究の推進を訴えている。その結果、遅々としてではあるが原子力基礎研究、放射線影響研究の研究基盤は整備され、関連する科学技術の進展を背景に我が国における原子力エネルギー開発の健全な発達に貢献してきたと言える(別紙@)。

 しかし、原子力の研究は絶えず政治、経済、産業、社会の動きに強く影響され、必ずしも順調な道のりをたどったとは言い難い。1955 年の学術会議勧告による「放射線基礎医学研究所」案、厚生省の「放射線衛生研究所」案は、科学技術庁の発足に伴い、国の試験研究機関「放射線医学総合研究所」となり、大学とは一線を画すこととなった。

 大学における放射線生物・医学の分野では、1958 年の勧告に添って大学に放射線生物学、放射線基礎医学関連の講座が新設されたことは評価される。1968 年勧告の大学を中心とした「環境放射能研究所」と「放射線障害基礎研究所」案は、それぞれ1975 年に金沢大学理学部附属低レベル放射能実験施設として、また1976 年には京都大学附置の全国共同利用施設放射線生物研究センターとして発足した。

 1983 年勧告では放射線生物研究センターの拡充、低レベル放射能実験施設の全国共同利用施設「環境放射能研究センター」への格上げに加え、「保健物理研究センター」の新設が勧告されたが、いまだ実現を見ていない。放射線影響研究における放射線生物学分野、環境放射能学分野、保健物理学分野の調和のとれた基礎研究の重要性を考えると、極めて不完全な研究基盤であると言わざるを得ない。

 国 の原子力関連予算にしても、その開発予算に比べ放射線影響研究に対する予算、特に大学における研究費は極めて制限されたものである。原子力平和利用が常識化し、原子力利用が実用の段階に入り、さらに高度利用開発の段階を迎え、安全確保の利用理念の重要性がますます増大しているとき、大学を中心とした基礎研究の弱体は原子力利用開発の将来に大きな不安を残す。加えて大学等の研究者の唯一の窓口であった文部省科学研究費補助金分科細目「放射線生物学」が1994 年に廃止されたことも研究者の研究意欲と指向性を喪失させるものであり、研究基盤の弱体化は否めない。その後、いくつかの代償的な企業・産業主導型の研究がなされているが、本来中立性と独立性が最も要求される放射線影響の研究に陰りを来すことが危惧される。

 影響研究は原子力の利用開発と一体となって推進すべきであるが、影響評価の研究が利益産業の理論で進められる限り、科学としての影響研究に将来は期待できず、また原子力利用開発に対する社会的・国民的合意も期待できない。研究のベクトルを正しい座標軸に据え、科学性と中立性を基層とした国の主導の下に原子力利用開発と整合性のとれた放射線影響の基礎研究の推進が強く望まれる。


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4 .放射線影響研究および研究体制の現状と問題点

 我が国における放射線影響の研究は、ビキニ環礁における水爆実験による被災(1954 年)を契機に出発した。1954 年に文部省に放射線影響研究の総合研究班が設置され、また1958 年の日本学術会議の勧告「放射線総合研究体制の強化について」を受けて、大学に放射線影響関連の講座が順次新設された(放射線生物学関連講座3講座、医学部放射線基礎医学関連講座10 講座)。1957 年には科学技術庁に国立試験研究機関として放射線医学総合研究所が設立された。

 1959 年には日本放射線影響学会が設立され、1961 年には日本保健物理協議会(1974 年より日本保健物理学会と名称変更)が設立された。そして、1968 年の学術会議勧告を受け、上記金沢大学理学部附属低レベル放射能実験施設および京都大学放射線生物研究センタ−が設置された。

 このほか、原爆放射能による障害の医療と予防に関する目的型研究施設として広島大学原爆放射能医学研究所(1958 年)および長崎大学医学部附属原爆後障害医療研究施設(1962 年)が設置されている。また、1947 年に米国原子力委員会(現エネルギー省)により設置された原爆傷害調査委員会(ABCC )は、1975 年から日米両政府出資による財団法人放射線影響研究所と名称変更となり、原爆被曝者の健康影響調査を日米共同研究として実施してきた。

 金沢大学理学部附属低レベル放射能実験施設は、大学における環境放射能研究の重要性を背景に設置され、放射性核種の環境動態、高空・宇宙・太陽系外など高次環境における放射能動態、放射性核種の生物濃縮の機構などの先端的研究を進めてきた。
 1986 年の原爆放射線の新線量体系の構築に当たり、誘導放射能の実測により線量再評価に大きく貢献した。21 世紀に向けて環境放射能研究とその研究者の育成はますます重要となってくる。設置形態が学部附置の学内共同施設として位置づけられているところから、大講座制の導入による独自性の減退が危惧されるほか、研究拠点としての機能や全国的な共同利用研究の推進には多くの制約があり、その打開策が課題である。

 京都大学放射線生物研究センタ−は、大学を中心とした放射線生物学研究の全国共同利用機関として設置された。小規模ではあるが、全国研究者の意見を反映して運営され、放射線影響の生物学的基礎研究を基盤に、全国研究者の共同利用研究、研究交流、情報交換、国際シンポジウムやワークショップによる国際交流を通して我が国における大学を中心とした放射線影響研究の研究拠点として機能してきている。しかし、今後急速な展開が予想される生命科学と放射線影響研究をいかに融合させて大学を中心とした研究拠点として機能するか、目的を明確に設定するとともに、経済的低成長時代における研究拠点としての充実と柔軟な運営体制の構築が課題である。

 大学における保健物理学の講座に関しては、1960 年に設置された東京大学医学部放射線健康管理学講座(現、社会医学系量子環境医学講座)が国立大学での唯一の講座として、これまで日本保健物理学会の中心的な役割をしてきた。
 しかし、保健物理学の研究は、放射線線量評価、放射線のリスク評価、エコシステムにおける放射性核種の挙動と動態、放射線健康管理、環境生物および人体に対する影響評価など放射線防護に関わる幅広い分野にわたっているにも拘わらず、今日まで研究体制の充実が図られてこなかった。
 原子力利用の増大に伴って放射線防護研究者や技術者の育成も急務となってきている。日本学術会議では大学等における研究基盤の整備の必要性を認識し、大学を中心とした研究拠点となる「保健物理研究センター」の設立を勧告してきたが、実現に至っていない。

 広島大学原爆放射能医学研究所および長崎大学医学部原爆後障害医療研究施設は、原爆放射能という特殊な放射線被曝がもたらす人体影響に関して多くの解明をもたらし、原爆影響に関する世界の発信基地として機能すると共に、地域社会にもたらした貢献は大きい。原爆放射線の影響に関する調査分析手法および得られたデータはヒトの放射線被曝の及ぼす健康影響の評価の重要な基盤となり、チェルノブイリ原子力発電所事故、セミパラチンスク核実験場の放射線影響等の実際に即してその研究は国際的にも大きな貢献をしている。原爆被曝者の減少という研究基盤の変化にどのように対応するか、また継世代影響といった長期的影響研究体制をどう組織化するかなど、21 世紀へ向けての研究体制の再構築が課題である。

 大学に設置された放射線影響関係の講座は、放射線科学の教育、若手研究者の育成に大きな力となってきた。その使命は今後もますます重要となってくる。
 しかし、1991 年より始まった大学における大学院重点化およびそれに伴う大講座制の導入により、従来の古典的講座と同様に研究領域が拡大し、先端化すると同時に、独自性が薄らぎつつある。放射線影響研究も他の科学の分野と同様、時代の進展とともに進化し高度化する。その過程で境界が曖昧となり、方向性が流動的となるのは学際性の高い放射線影響研究の宿命である。これは、基礎研究に潜在する戦略性を考えれば予見されることであり、また人間本来の知的興味が源である大学等における基礎研究の宿命でもある。
 しかし、一方、最近の生物・生命科学の進展はその研究過程で放射線を対象とする研究も増大し、放射線の研究は更に広い研究領域に浸透し、急速に拡大しつつあり、従来のような狭義の古典的な学問領域という役割分担はもはや成り立たなくなっている。
 今や、拡大する放射線の研究を統合し、真の総合科学としての影響研究を含めた原子放射線科学をいかに構築するかという問題が問われている。

放射線医学総合研究所は、国の試験研究機関として放射線科学に関する国の重要課題に取り組み、放射線影響ならびに放射線の医学利用のフロンティアを開拓し、原子力・宇宙など国の大型プロジェクトに対する総合戦略、医学における放射線の高度利用開発など先端技術を駆使した展開研究を特徴とする。
 国の対がん10 ヶ年総合戦略の一環として開発された重粒子線がん治療装置は、1994 年からは共同利用にも供され、重粒子線研究の発展に貢献している。また、原子放射線の影響に関する国連科学委員会の活動の我が国における窓口としても機能するとともに、発展途上国における放射線科学の推進など行政にベ−スを置いた中枢機関として位置づけられている。2001 年からは独立行政法人化が予定されているが、展開的先端研究機関としての任務に期待されるところは大きい。

財団法人放射線影響研究所は、原爆被曝者の健康影響調査を目的としている。
 設置当初は、米国エネルギー省管轄ということもあって、その調査内容に関しては、閉鎖性の高いものであったが、1975 年に現在の日米共同出資による財団法人の研究所となってからは、その研究成果が国内を含め世界に広く解放され、人類に対する原爆放射線の影響に関する発信基地として機能し、その放射線被曝と健康影響に関する調査研究の成果は、現在では世界の放射線リスク評価の基準となっている。

 以 上の研究施設はそれぞれ設置目的や設置形態並びに規模は異なるが、それぞれの特徴を生かし、関連する放射線科学の研究と協力しながら我が国における放射線影響の研究を推進してきた。 その結果、生物・生命科学の分野における放射線研究では我が国は世界をリードする多くの業績を挙げてきている(別紙A)。

 しかし、それぞれの施設がもつ設置形態のちがい、目的、理念、使命、規模、予算、任用形態のちがいなどから、それぞれの研究機関の間で横断的交流が充分でなく、総合研究体制の確立の立ち遅れが目立つ。特に、保健物理研究の研究拠点が確立されていないことから、放射線影響研究の中での放射線生物物理学、線量評価、リスク評価、放射線の線源と挙動などといった放射線防護並びに保健物理学の分野における研究・教育体制の遅れが目立っている。このことは、放射線診断や放射線治療における医学放射線物理学の分野においても我が国の研究・教育体制が欧米に比べて遅れていることの原因ともなっている。

 放射線影響の研究は、原子力利用開発に対する歯止めの科学ではない。放射線影響研究は、放射線が生命体にどのように作用するかという量子エネルギーと生体反応という生命科学の根本問題の理解と放射線利用の基礎として無限の可能性が伏在する戦略性の高い科学の分野である。

 放射線・放射能と人との関わりの科学としても原子力利用開発の学術的基盤として欠かすことのできない学術分野である。また、放射線影響の研究は、放射線生物学、放射線物理学、放射線化学、放射線医学、保健物理学、環境放射能研究などの単純指向性の分散型基礎研究では十分な成果は必ずしも望めない。

 「放射線作用の物理化学的特性の理解」、「生物作用の基本機構の理解」、「放射能の存在形態と挙動の理解」、「放射線源と人との関わりの保健物理的理解」の調和のとれた総合研究体制が重要である。そのためにも、放射線影響研究の重要な柱である環境放射能研究および保健物理研究の研究拠点が形成されていないこと、並びに特徴ある各研究機関の横断的連携体制が確立されていないことが原子放射線の総合研究体制を弱体なものとしている。

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5 .原子放射線研究の重要課題

 放射線の生物影響は、単に放射線が生物にどのような傷害をもたらすかということだけではなく、放射線作用とそれに対応する生体機能の複合的所産としての現れである。放射線の作用面の研究の歴史は古く、これまでにも多くのことが解明されてきたが、対応する生体機能の面では未知な部分が多く、全体像の解明には残された問題が多い。

 ことに過去50 年間の放射線影響の研究では、高線量域での研究が主体となり、放射線の物理化学的作用面に注目し、遺伝物質などの重要生体高分子を標的とした標的理論が説明理論として展開され、放射線防護基準などの理論的基盤となってきた。しかし、社会的・学術的関心が低線量・低線量率放射線の影響に向けられるようになり、この高線量から低線量・低線量率放射線への直接的外挿には今や多くの疑問が生じている。

 ことに放射線による発がんや遺伝的変異については、高線量域での生物反応がそのまま単純には低線量域での問題に当てはめられないという指摘が多い。これには放射線に対する巧妙に仕組まれた生体の認識と応答の機構や生命進化の過程で獲得した生体防衛機構が背景にあり、放射線影響の理解は、放射線作用機構の根本的見直しと、生物・生命科学の根本問題を含めた全く新しい概念で捉えられなければならない段階にきている。

 現在、放射線影響の面で重大な関心が寄せられている生物現象には、低線量放射線に対する適応応答、遺伝的不安定性の誘導、生物学的放射線監視機構と細胞の自爆死による組織修復、細胞内情報伝達と遺伝子発現の誘導、放射線影響における酸化的損傷、ホルモン様刺激効果、発がんの線量効果のしきい値と逆線量率効果などがある。

 いづれも生命体システムの制御機構と直接関係した未知の現象であり、学術的にも生命科学の重要課題であると同時に、放射線防護の生物学的基盤としても国際的に高い関心が寄せられている。現在、研究はその緒についたばかりであるが、学術的にも社会的にも大きなインパクトを持つ問題である。

 21 世紀における人類の主たる放射線被曝は、低線量・低線量率放射線であると想定されている。その主たる線源は原子力発電、放射性廃棄物、医学診断および核兵器等に伴う放射線が考えられる。いずれも想定される線量は自然放射線に近いレベルのものであるが、その生物学的影響は未知の領域であり、散発的論議も科学的根拠に乏しい。低線量放射線の影響は危険度評価や法規制など放射線防護の実際に即しても大きな関心事となっている。

 問題の重要性と緊急性からアメリカ合衆国政府は1998 年より「低線量・低線量率放射線の生物学的影響」と題する10 か年計画の研究プロジェクトを開始した。低線量放射線被曝に関する公衆の意思を決定するためには確かな基礎科学的根拠が不可欠であるというのが研究プロジェクトの立脚点となっている。欧州共同体では、チェルノヴイリ原子力発電所事故による環境汚染の当事国でもあり、低線量放射線・放射能の環境動態、影響評価の研究が活発である。

 低線量放射線の生物影響の問題は、放射線と生命体の相互作用が集約された学術的にも社会的にも極めて関心の高い問題である。この問題の解明には生命科学に踏み込んだ放射線の生物作用、物理化学的基本機構、放射線・放射能の挙動原理、被曝環境動態など量子論的理解と生物・生命原理を融合した広い領域での基礎研究が土台となる。このような原子放射線研究は長期的・俯瞰的視野に立って推進されなければならないが、現状では別紙に掲げるような当面の課題が考えられる(別紙B)。

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6 .研究体制の整備

大学を中心とした総合的研究基盤の整備
 放射線影響研究はあくまでも放射線が生体にどのように作用するかという科学である。
 高度研究体制に基づく学術的基盤なしにはいかなる論議も説得力がない。逆に言えば、放射線影響研究はそのような政治、社会、経済に対して敏感であり、その動向がそれらに左右されるという危機的状況が潜在していると言える。

 放射線影響研究所における原爆被曝者の健康影響調査結果が世界に広く信頼されてきたのも米国エネルギー省の直轄でなく、全米学士院が窓口となって進められ、中立性が保たれていることが大きな力となっている。放射線影響研究を原子放射線の科学の一環として捉え、学術としての体系化が研究の推進にとって重要である。

 我が国における放射線影響の研究においては、研究組織によりその理念や目的も異なり、これまで国、大学、研究所、企業の4 つのセクターが鼎立してきたが、一般的に言って相互の連携や人事交流に乏しく、また研究費の分布の不均衡も著しいものであった。放 射線影響研究が放射線と生命の相互作用に基盤を置いた科学である限り、その研究は常に生命科学の進展と呼応して進展しなければならない。

 大学における研究は本質的には知的興味にあり、研究が研究を生み、科学に創造をもたらす。物質と放射線の相互作用およびその認識と分子応答など生命体システムに基盤をおく放射線影響研究の推進には、このような知的興味に基づく基礎研究を重視し、支援することが重要である。

 生命科学は本来戦略性の高い研究分野である。戦略的基礎研究は大学等における本質的には知的興味を源泉とする純正基礎研究にはなじまないという意見もあるが、基礎研究には本質的に戦略性が潜在し、自由な発想と競争原理が研究開発の原動力となり、また高度で創造性に富む人材育成の強力な推進力となる。

 大学における研究の特性として、研究分野の多様性と流動性が挙げられる。経済的低成長時代における学際性の高い研究領域の推進に当たっては、全国の研究者と密接に連絡を保ちながら運営にも研究者の意見が反映される研究拠点の形成が効果的である。日本学術会議では、これまでにもその有効性と重要性を認識し、次のような研究体制を提言をしてきた。

すなわち、
(1 )全国共同利用施設「放射線生物研究センター」の充実、
(2 )金沢大学理学部附属「低レベル放射能実験施設」の全国共同利用施設「環境放射能研究センター」への格上げ、および
(3 )全国共同利用施設「保健物理研究センター」の新設の重要性である。

研究がますます多様化する今日、その重要性はさらに増大してきている。これらは大学を中心とした基礎研究の拠点として機能すると共に、全国の関連する研究支援体制を強化し、研究交流・学術情報の拠点としても機能することが期待される。

 目的型研究機関としての「広島大学原爆放射能医学研究所」、「長崎大学医学部附属原爆後障害医療研究施設」は、原爆放射線を対象とした地域型のユニークな研究機関である。これらは、その目的と理念に従ってさらなる発展が期待される。

 原爆放射線の人体影響とその医療は、原爆被爆者の健康管理、継世代的影響、緊急時被曝対策などヒトの放射線被曝の実際を対象とした放射線影響に関し、我が国だけでなく国際的にも重要な貢献をしてきた。我が国における原子放射線の総合的研究体制にとって欠かすことのできない存在である。これらの研究機関とも密接な関連を持って研究を進めることが重要である。

大学における原子力研究関連領域における放射線影響研究分野の設置
 原子力の研究開発を推進するに当たって、安全研究の一環としての影響研究の推進が重要であることは言をまたない。
 また、最近の生命科学は構造生物学を基盤とした機能研究へと展開してきている。原子力の生命科学や医学・生物産業への応用に視点を向けた場合、生命科学の工学的展開は現実のものとなってきている。すでに工学研究の中に生物工学や管理工学は重要な領域として導入されている。原子力研究の総合的発展を推進するためにも原子力工学、原子核工学の領域に生物影響、環境影響、保健物理など生命体システムに踏み込んだ高次の体系化が望まれる。

大学等における放射性同位元素総合センターとの連携
 大学等における放射性同位元素総合センターは、放射性核種利用の学内共同利用施設として設置され、放射性核種利用の管理と教育、利用開発研究のほか独自の研究が行われているが、現状では予算規模が小さく、定員も極めて不十分なため、研究者に課される管理業務が研究時間を圧迫し、研究開発のブレーキとなっている。
 研究と教育に専念できる時間が確保できるように人員を配置した研究体制を確立すると共に、研究面では単に同業者との研究交流にとどまらず、その地域性と研究領域の多様性を十分に生かし、広く他の放射線関連分野との密接な連携のもとに研究を進める必要がある。

その他の関連研究機関との連携による総合研究体制の形成
 原子力利用開発、宇宙開発、放射線高度先端医療開発など国策として推進される大型プロジェクトに対しては、大学の個々の研究室あるいはその連合体の域を超えたフロンティアを拓くさらに高次の研究戦略が必要とされる。

 「放射線医学総合研究所」は国の試験研究機関としてその任を果たしてきた。独立行政法人組織に変換になった後もその任務に期待されるところは大きい。プロジェクト型の研究にはプロジェクトに対応した流動的な研究組織と高度な研究体制が要求される。そのためには競争原理と自由な発想に基づく大学を中心とした純正基礎研究の集約された形での先端的基礎研究・展開研究の強力な推進が必要とされる。そのためにも、大学との研究協力体制、人事の交流、大学院教育、若手研究者の育成など有機的連携を通してはじめて大きな成果が期待できる。

 日米共同研究による(財)放射線影響研究所は、原爆放射線の健康影響に関する高度な解析技術を擁する。その研究成果はヒトの放射線被曝の健康影響の理解に関して世界的に貢献し、その研究手法は世界の放射線被曝の実際に即して数多くの貢献をしてきている。放射線影響評価に関する世界への発信基地として機能し、その重要性は今後も変わらないだろう。研究所の設置経緯から、これまで我が国の大学・研究機関との人事交流・情報交換は極めて限られたものであった。

 研究・人事・情報面での交流の強化は、我が国における原子放射線の研究体制をより堅固なものとするだろう。原 子放射線の影響と医学・生物学利用は、原子力・放射線利用の単純なメリット・デメリットの問題ではない。それらは強い基礎科学の成果が基層をなすものでなければならない。そのためには、自由な発想と知的好奇心に基づく純正科学を土台とした基礎研究を理念的に統合できる研究拠点および性格の異なった研究機関が連携を保ちつつ、個々の学術研究から国家プロジェクトなど大型研究までを有機的に繋ぐ総合研究機構の形成が望まれる。

 そのためには、研究者の相互乗り入れ、情報ネットワークの強化など新しい形の協力体制が考えられる。それが放射線影響を含めた原子放射線の総合的研究体制を形成し、21 世紀における放射線科学を魅力あるものとするとともに、それによって原子力・原子放射線の社会への還元と環境保全に対する国民とのコミュニケーションの学術的基盤の確立が期待できる。

調和のとれた国の原子力関連予算
 原爆被曝国である我が国における原子力研究の出発に当たって、当時の世界における原子力研究の方向の不透明性から、大学のとった立場は、科学の自主性を尊重し、日本の原子力研究がその方向性を規定しないまま出発することに不安を抱き、原子力関係諸法の規制から大学を除くというものであった〔矢内原忠雄(国立大学協会会長)・茅誠司(日本学術会議会長)、1955 〕。

当時、世界の多くの国ではすでに原子力研究が国の大型プロジェクトとして取りあげられ、その主流が軍事目的であったことを考えると、この選択の妥当性は理解できるが、そのため原子力委員会の設置、科学技術庁の設置に当たっても「原子力利用の経費については大学を除く」という付帯事項が付き、以後大学の研究・教育は国の原子力関連予算から除外されるという外国には見られない奇妙な縦割り行政となった。
 しかし、原子力の平和利用が定着し、常識化した今日、この縦割り行政は、官・民・大学の別なく研究者の英知の結集が求められる原子力研究という国の大型プロジェクトの推進にとって大きなブレーキとなっている。今や新しい視点に立って広く研究者の英知が結集できる調和のとれた原子力関連予算の配分が強く望まれる。

 大学における放射線影響研究に関する研究助成の唯一の窓口であった文部省科学研究費補助金分科細目「放射線生物学」(851 )が1994 年に廃止されたことも放射線影響の基礎研究の弱体化につながっている。

 文部省科学研究費補助金の研究領域は、学術振興会の助成対象分野ともなっており、若手研究者の育成、研究交流活動などに与えている打撃も少なくない。放射線影響研究、放射線利用技術などヒトとの関わりを頂点とする原子放射線の科学は原子力時代の基層科学として重要な位置を占める。

 研究の推進と人材の育成において大学の果たす役割は大きい。今や改めて放射線と生命現象が新しい展開を見せ、一種の巨大科学とされる低線量放射線影響の研究に学術的にも社会的にも重大な関心が集まっているとき、放射線システム生命科学とでも呼ばれる放射線と生命体システムに関する新しい研究領域の設定し、重点的かつ強力に研究を推進する必要がある。

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7 .原子放射線とその影響に関する教育

 放 射線影響研究が科学として成熟し、社会的要請に応えられるためには若手研究者・技術者の育成も重要な任務である。そのためには、大学における研究分野として放射線影響関連の研究部門の充実が必要であるとともに、現在の放射線影響関連の部門が部門固有の領域にとどまることなく、全国レベルで横断的に協力し、魅力あるカリキュラムを設定するなど教育への努力が望まれる。

 研究所・センターでは研究を主務とするが、大学院学生を中心とした教育により新進の研究者を育成するとともに、社会に役立つ実践的人材の養育という重要な任務がある。展開研究機関を含めた研究所・センターの大学院生の相互乗り入れ、非常勤研究員、研究推進支援研究員、ポスドク制度、特別共同利用研究員制度、実務者教育、社会人教育等による大学院教育の新しい展開に対する支援を図る必要がある。

 一方、学校教育においても放射線影響研究の任務は重大である。原子核とエネルギーおよびその操作、量子エネルギーの吸収と分子の反応などは、基礎科学の最終問題と言ってよいほど根源的な人間の知的興味の的であり、学校教育においても科学的探究の場を与えるものであるが、世界で唯一の原爆被曝国である我が国では原子力・放射線という言葉自体が国民感情として特別視される向きもあり、必ずしも順当な経過を辿ってきてはいない。

 高校では、原子力の問題は主として資源エネルギー、環境汚染などの観点から社会科系の中で多少扱われているが、理科系の中では殆ど扱われていないこともこれを物語っている。科学としての面白さを通してのエネルギー教育、放射線と生命進化、生体の生理応答、生体防衛機構など社会科と理科が相俟って教育に当たることにより、新しい進展が期待できる。

 原子力は科学の基本的現象として知的興味の対象となるが、エネルギー問題、環境問題、影響問題などの社会問題とも密接に関係するところから、知的興味だけでは教えにくいという面も無視できない。原子力利用開発が信頼性を高めてきた今日においても、アメリカや旧ソ連で起きた原子力発電所の大規模な事故が再び発生しないと言う危惧を完全に払拭することは難しい。

 原子力利用によってもたらされる利益、放射線の医学利用による人類の福祉、新しい産業の創出による有用性などの代償効果がいくら強調されても、多様な認識基準からなる社会の一般的合意が形成されるとは必ずしも保証できない。

 科学者の責任としては、安全の保証できる原子力・放射線利用技術開発の高度化と科学的に説得力のある放射線影響の定量的理解に向かって科学を高め、正確な知識の普及への努力が重要である。そこに原子力・放射線に関する教育の原点がある。教育が開発段階にある原子力の普及のための道具として利用されてはならない。

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8 .提 言

 以上、我が国における原子放射線の研究体制と影響研究の現状を概観し、来るべき21 世紀における研究の推進方策について基本的考えを述べた。21 世紀における放射線と人間との主たる関わりは低線量・低線量率の放射線と想定されている。微量の放射線に対して生命体がどのように応答するか全く未知の領域であり、放射線のエネルギー付与と分子受容の量子論的理解、生命体システムとの相互作用の生物・生命原理など研究戦略におけるパラダイムの転換と新しい科学の枠組みに対応できる総合研究体制の整備が急務となっている。問題の重要性と緊急性を認識し、以下の点について提言する。

提言1
 低線量・低線量率放射線の人体影響の問題は21 世紀における重大関心事となっている。その解明には放射線作用の基本原理と生物・生命原理を融合させた新しい研究戦略が要求される。原子力関連予算の予算体系の見直し、科学研究費における特別枠の設定など、国の基本方針を早急に策定し、重点的に研究を推進すること。

提言2
 低線量放射線の研究は一種の巨大科学であり、研究の総合性と統合性が要求される。関連する研究機関並びに研究拠点がその特性を生かし、有機的な連携と整合性をもって総合的学術体制を構築する必要がある。特に大学等においては、全国の研究者の意見が反映される研究拠点に、流動的で多様な研究が理念的に統合・集約される必要が
ある。そのため、放射線生物研究、環境放射能研究および保健物理研究の研究拠点の形成と充実を図ること。

提言3

 放射線影響・放射線利用など人間との関わりを頂点とする放射線科学は、生命科学や量子科学などの広い分野にまたがる先端的研究を基盤としている。原子放射線を真に人類の福祉に役立てるためには、放射線科学の総合的研究の推進が必要である。そのため、大学等における放射線科学関連の講座の充実を図るとともに、原子力・放射線の利用・開発研究に関連する領域に放射線生物研究、環境放射能研究、保健物理研究の分野を導入し、研究体系の高度化を図ること。

提言4
 大学等の放射性同位元素総合センターは、地域を基盤とした放射線科学の拠点としての機能が期待される。研究・教育の側面を充実するとともに、その地域性と研究領域の多様性という特徴を生かしながら放射線科学の一環として他の放射線科学の研究分野と連携をもって研究を進める体制を確立すること。


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9 .おわりに

 本報告書は、第17 期日本学術会議核科学総合研究連絡委員会放射線科学専門委員会における検討結果に基づいてまとめられたものである。なお、本報告書の全体にわたり、核科学総合研究連絡委員会原子力基礎研究専門委員会、核融合専門委員会、原子力工学研究連絡委員会並びに原子力分野の研究推進検討小委員会の委員など多くの方々のご指導ご助言をいただいた。
 本報告書が今後の議論や施策の策定に際して有効な指針となれば幸いである。

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10 .附 属 資 料

1 .放射線影響研究に関連する日本学術会議の活動と大学関係を中心とした研究体制の経緯(別紙1 )
2 .放射線生物・医学関連の主な発見および出来事(別紙2 )
3 .原子放射線研究における当面の重要課題(別紙3 )
4 .用語説明(別紙4 )


(別紙4 )
用 語

原子放射線(Atomic radiation )

 核分裂、核融合、原子の崩壊、原子核や素粒子の運動制御など原子の改変などに伴って生み出される放射線。一般的には、電離放射線あるいはイオン化放射線という言葉が使われるが、国連科学委員会は「原子放射線」という言葉を使っている。その背景には「人類が原子操作を発明して以来、その利益と損失は人類全体の課題である」という原子力の平和利用の概念と、「原子から生み出される放射線は同時に原子を改変する力を潜在的に持つ」という原子力の利用と作用の原理がある。空気を電離する能力に注目すれば電離(イオン化)放射線である。従って、紫外線、電磁場、マイクロ波などの非電離放射線は含まない。

素線量(Elementary dose)
 荷電粒子(電離を起こす粒子)1 個が細胞などの標的に与える線量。高線量の場合には細胞の受ける線量は均一であり、平均吸収線量として線量が使われるが、低線量では、荷電粒子の数がまばらになるため、細胞が受ける線量は不均一になる。低線量の研究にはこのような線量の概念を変える必要がある。

低線量放射線(低レベル放射線)
 具体的にどこからが高線量で、どこからが低線量であるかという境界はない。素線量に相当する線量(例えばガンマー線では約2mSv 、5MeV のアルファー線では約700mSv )、即ち全ての細胞核が平均1 個の荷電粒子のヒットを受ける線量、とする考えもあるが、今回の米国エネルギー省の研究プロジェクトでは、人体影響が明らかでない線量域として1 回の被曝線量として100mSv 以下を問題としている。(mSv :放射線量の単位であり、組織1g 当たり10erg のエネルギーを与える放射線量。一般公衆が自然界から受ける放射線量は年間約2mSv 、1 回の胸部X 線撮影で約0.1mSv 。 MeV :放射線のエネルギー量。)

適応応答(Adaptive response)
 低線量の放射線に当たった細胞がその後の放射線に対して抵抗性になり、突然変異や細胞死が起こり難くなる現象。

遺伝的不安定性(Genetic instability)
 放射線、特に電離密度の高い種類の放射線、に当たった細胞がその後分裂を繰り返しても突然変異の自然発生率が高い現象。

ホルモン様刺激効果(Hormesis)
 低線量の放射線が免疫機構などを刺激して寧ろ有益効果をもたらすという放射線効果の概念。

逆線量率効果(Inverse dose-rate effect)
 一般に突然変異や細胞死は一定量の放射線を長期にわたって与えると1 回に与えた場合に比べて効果が少なくなるが、発がんなどでは逆に効果が大きくなるという現象。

発がんの「しきい値」
 放射線による発がんで、発がんが単純に放射線量に比例して増加するのではなく、一定線量に達するまでは発が
んが起こらない場合がある。この無反応の線量限度を「しきい値」と呼ぶ。

細胞の自爆死(Apoptosis)
 放射線あるいは放射線によって作られた傷害を認識して、細胞が自殺することにより次世代に影響を残さない現象(アポトーシス)。

安全確保の利用理念(Safety culture)
 利用開発は常にその安全性の確保と表裏一体として進められなければならない。日本学術会議第18 回総会決議「原子力の研究、開発、利用に関する措置」(申入)第6 項参照。(=原子力利用に伴う原子放射線の障害防御は原子力開発と「車の両輪」)

矢内原原則
 1955 年12 月12 日矢内原忠雄国立大学協会会長および茅誠司日本学術会議会長が国会に対して「原子力諸法の成立によって大学の研究・教育の自由が侵されないようにしてほしい」と要望。以後、原子力委員会の設置、科学技術庁の設置等に伴い、連鎖的に「原子力利用に関する経費には大学における経費は含まないものとする」という付帯事項が付くようになった。

チェルノヴィリ原子力発電所事故
 ウクライナ共和国チェルノヴィリにある原子力発電所の第4 号炉が爆発して(1986 年4 月26 日)大量の放射能汚染を引き起こした。
セミパラチンスク核実験場セミパラチンスク核実験場セミパラチンスク核実験場セミパラチンスク核実験場カ ザフスタン共和国で1949 年から1989 年までに503 回の核爆発実験(空中爆発98 回、地上爆発28 回、地下爆発344 回)が行われた。現在でも環境汚染と周辺地域の住民の被曝が問題となっている。

ビキニ水爆実験
 1954 年3 月1 日北太平洋マーシャル群島ビキニ環礁で行われた水爆実験。日本のマグロ漁船「福竜丸」の23人の乗組員が放射性降下物による被曝を受け、また広い範囲にわたる海洋汚染を引き起こした。

米国政府「低線量・低線量率放射線の生物学的影響」10 か年研究プロジェクト
 全米学士院に置かれている放射線影響研究委員会では低線量・低線量率放射線影響について検討してきたが(1998 年に報告)、米国エネルギー省(DOE )は、この問題を重視し、上記の研究プロジェクトを立案し、1998 年9 月に予算化し(年間300 万ドル)、1999 年1 月に研究課題を公募した。その背景には以下のような状況がある。

@ 国際放射線防護委員会(ICRP )は、その1990 年の勧告で、高線量放射線の遺伝的・身体的危険度を低線量にまで直線的に外挿して、容認できる線量限度として自然放射線に近い線量を勧告した。これを国内法や法規制に取り入れるに当たって、国際的に大きな問題となってきている。日本でも、放射線審議会で基本的には勧告に沿った法改正が検討されている。しかし、低線量の放射線が人体にどのような影響があるかということに対しては科学的データに乏しい。放射線防護、遮蔽などに莫大な投資を必要とすることになるが、その科学的根拠がない。納得できる科学的根拠が社会的合意の形成のためにも先決問題である。

A 低線量放射線の影響の問題は、従来のような集団を対象とした疫学調査では限界があり、現代の分子生物学的手法を用いた基礎研究によって、より優れた科学的基盤を作り上げる必要がある。

B 基礎研究によって低線量影響の学術的基盤が形成されれば、核実験による放射能汚染の除去、放射廃棄物の処理など、国が抱える重要問題に対して社会的・国民的合意が得られ、国民の税金をエイズ問題など他の重要課題に使うことができる。

C 研究成果は、政策立案者、基準設定者、一般大衆に有益であり、信頼できるものでなければならない。研究結果に関する公衆とのコミュニケーションプログラムを作成し、公衆の意見を政策決定に反映させる。米 国核科学会(日本では原子力学会がこれに相当する)および米国保健物理学会もこの研究プロジェクトに大きな期待をするという声明を発表した。日 本放射線影響学会も我が国における低線量放射線影響研究の推進の重要性を訴える声明を発表した(平成11年9 月2 日)。

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