大学問題
−危機とその打開への道−


第17期
日本学術会議
第二常置委員会報告


平成12年1月17日

日本学術会議
第二常置委員会


 この報告書は、第17期日本学術会議第二常置委員会での審議の結果をとりまとめたものである。

 第二常置委員会

委員長 中塚  明 (第1部会員、奈良女子大学名誉教授)

幹 事 天野 郁夫 (第1部会員、国立学校財務センター研究部教授)
    杉原 泰雄 (第2部会員、駿河台大学法学部教授)
    小橋 澄治 (第6部会員、京部造形芸術大学客員教授)

委 員 浜川  清 (第2部会員、法政大学法学部教授)
    加藤幸三郎 (第3部会員、専修大学経済学部教授)
    鶴田 満彦 (第3部会員、中央大学商学部教授)
    池内  了 (第4部会員、名古屋大学大学院理学研究科教授)
    吉村  功 (第4部会員、東京理科大学工学部経営工学科教授)
    久米  均 (第5部会員、中央大学理工学部経営システム工学科教授)
    松尾  稔 (第5部会員、名古屋大学総長)
    三橋  淳 (第6部会員、東京農業大学応用生物科学部バイオサイエンス学科教授)
    武下  浩 (第7部会員、社会保険小倉記念病院名誉院長)
    外山 圭助 (第7部会員、東京医科大学名誉教授)


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第17期日本学術会議 第二常置委員会報告

大学問題−危機とその打開への道−

目次

要 旨

序:世界を視野に長期的な展望を

第T章:世界史的俯瞰
 T−1.地球史的・人類史的課題
 T−2.大学の変貌と高等教育への期待
 T−3.大学はどうあるべきか

第U章:大学問題を考える基礎的視点
 U−1.「世界史の趨勢の視点」から
 U−2.憲法理念の発展にみる「文化国家」の視点
 U−3.国際的な諸条約の到達点に注目する

第V章:国際的にみる日本の大学
 V−1.財政基盤の弱い日本
 V−2.学術交流と留学生問題

第W章:大学の説明責任と評価の問題
 W−1.大学の自己点検と説明責任(accountability)
 W−2.大学評価の問題
 W−3.国立大学の「独立行政法人化」問題

結び:21世紀の大学とその社会的責任


要  旨

 日本学術会議第二常置委員会では、第15期に「大学の自己点検・評価に関する現況調査」をおこない、第16期には「大学改革と若手研究者」に関するアンケート調査を実施し、「大学改革の現状と問題点」と題する報告書を公表した。第17期では「第17期の活動計画(申合せ)」が第二常置委員会の課題とした「科学者の社会的責任」、とくに「科学者の在り方と社会的責任の視点から、大学の健全な発展についての問題点を検討する」ことを主眼として審議を重ね、ここに「大学問題−危機とその打開への道−」と題する報告書を公表する。

 本報告は、今日、日本の大学が当面している問題を網羅的に論じたものではない。むしろ日本の大学問題を考えるに際しての基礎的な視点を示して、あるべき大学像を大学人はもとより、ひろく国民的な英知を傾けて考えるための素材にしていただけるよう念願して発表するものである。

 日本では、1990年代にはいり、とりわけ1991年の大学設置基準の「大綱化」以後、大学改革の動きが急速に広まってきたことは周知のことである。しかしその改革の理念は必ずしも明確でなく、長期的な展望を欠いたままに改革が進んでいる憾みがある。こうした状況にかんがみ第二常置委員会では、日本の大学が直面している危機的な状況を打開する道を考えるにあたって、歴史的な見方と世界史的な視野にたつことを重視した。

 第T章では、世界史的俯瞰のもとに、地球史的・人類史的課題を簡潔に述べ、世界的な規模での大学の変貌と高等教育への期待の高まりのなかで、大学はどうあるべきかを論じ、同時に日本の特殊な状況に注意をはらいつつも、日本の大学の危機的状況の打開のために長期的な見通しをもった総合的な施策が必要であることをのべた。

 第U章では、上記の考えをさらに敷○し、今日、大学問題を考える基礎的視点として、「学術・文化・大学」の世界史的・人類史(地球市民)的な「歴史状況の認識」から出発すべきこと、具体的には近・現代における憲法理念の発展にみる「文化国家」の視点、国際的な諸条約の到達点に注目することの重要性をのべた。

 そうした前提にたって、第V章では、日本の大学を国際的に見た場合、どんな問題があるかを、特に日本の高等教育に対する財政基盤の弱さの問題および学術の国際交流と留学生問題に焦点をあてて論じた。

 今日、日本の大学が将来をめざして改革をすすめるにあたって、上記の基礎的視点に着目すると同時に、それぞれの大学の自主的・自律的な立場を宣明することがなによりも求められている。そこで第W章では、大学の自己点検と説明責任とはどういうことか、また大学の評価はいかにあるべきかを論じ、あわせて国立大学の「独立行政法人化」問題にかかわって、日本の高等教育を長期的に展望し、国立大学の将来を策定するうえで、なにが議論されるべきかを論じた。

 最後に結びとして、21世紀の大学は高度な訓練を受けた人材の育成、知的生産の役割、研究能力の強化を通して、産業界および社会との協力をいっそうすすめると同時に、人類史的課題に立った危機の予見的機能をはたすことが求められるであろうこと。そのためには自然科学のみならず人文・社会科学をふくめて、知識の俯瞰的統合が必要であり、それには学問・思想の自由の保障、さらには大学の構成員の教育・研究を通しての自律と社会の負託にこたえる自覚が必要な所以を述べた。

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:世界を視野に長期的な展望を

 世界でも日本でも、いま大学は大きく変わろうとしている。そのもっとも大きな社会的背景は高等教育の空前の拡大である。

 高等教育の「大衆化」、すなわち高等教育の規模の爆発的な拡大は、単に量的な変化にとどまらず、目的、機能、制度、選抜方法、財源問題などの諸側面に、多様化や質的な変化が生じることをも意味する。

 日本では、1991年の大学設置基準の「大綱化」以後、大学の改革・再編の動きはひときわはげしくなった。加えて経済不況と行政改革の波のもとで、大学をめぐる状況はめまぐるしく変わりつつある。改革が強く期待され、次々に実施に移される一方で、なんのための改革か、だれのための改革か、長期的に将来を展望した改革か−改革の本質と見通しはかならずしも定かではない。

 教育研究の問題は、いうまでもなく「国家百年の計」である。にもかかわらず、大学の教育研究の長期的な展望や理念が不明確なままに、「将来への不安」をないまぜながら「大学改革」が進行している現状に、われわれは深い憂慮を抱かざるをえない。

 第17期(1997年7月〜2000年7月)の日本学術会議第二常置委員会(七つの常置委員会の一つで、「学問・思想の自由並びに科学者の倫理と社会的責任および地位の向上に関すること」を調査審議している)では、こうした憂慮にもとづいて大学問題を集中的に審議してきた。

 この報告書は、今日の日本の大学が当面している問題のすべてにわたって意見をのべるものではない。われわれが現在、日本の大学問題を考えるうえで、特に緊急に注意をはらう必要があると考えられるいくつかの問題について、所見をのべたものである。

 歴史をかえりみ、目を世界にひろげ、長期的に将来を展望した大学改革をともに考えたいというのが、この報告の主旨である。

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第T章:世界史的俯瞰

T−1.地球史的・人類史的課題

 いま、われわれは地球と人類の未来に、負の遺産を残すのではなく、明るい展望を拓きたいと熱望している。そのためには、現代をどうみるかということは避けて通ることのできない問題である。

 近代の歴史は、科学技術の急速な発展と先進諸国における人間生活の物質的な甘かさと便利さをうみだした。同時に科学の発達は地球環境の破壊と汚染をともない、政治的には帝国主義国家による植民地支配、世界的な大戦争、そして核兵器など人類と地球を破滅におとしいれかねない大量殺戮兵器をもうみだした。また、経済的には膨大な軍事費が人びとの福祉や教育・文化活動の発展に大きなさまたげになり、また世界的な南北格差の増大をうんだ。

 このにがい体験から、平和・人権・民主主義・民族自決の道が確実に力を増し、また地球環境を維持しつつ可能な持続的発展を探究する道が、地球の存続と人類の生存にとって不可避となった。

 征服や制覇を善とする価値観が地球上をまかりとおった時代から、「万物共生の地球時代」への転換を実現することが、いま、われわれに求められている。

T−2.大学の変貌と高等教育への期待

 20世紀、とりわけその後半の時期は、大学が大きく変貌した時期である。アメリカの社会学者マーチン・トロウは、該当年齢人口比でみた高等教育の就学率15%をエリートからマス(大衆化)へ、50%をマスからユニバーサル(普遍化)への高等教育の段階移行の指標とした。この移行傾向は世界的なものであり、日本の高等教育も、いまや就学率50%というユニバーサル段階をむかえようとしている。さらに在宅、在職のまま学習を可能にするユニバーサル・アクセス型の高等教育さえ現実の問題として考えられつつある。

 このような傾向は、総体的に学術・研究の中心となるべき大学の質を変え危機におとしいれる側面をもつが、同時に人びとの高等教育への切実な願いの社会的現れでもあることを見落としてはならない。

 21世紀を前にして、「国際平和と国際理解、国際協力ならびに持続可能な開発という全世界的な目標は、責任を自覚した市民として地域社会に奉仕し、かつ効果的な学術および高度の研究に取り組み得る資質と教養を備えた高等教育」(ユネスコ「高等教育の教育職員の地位に関する勧告」1997年)への期待を人びとのあいだにひろげている。

T−3.大学はどうあるべきか

 地球の存続と人類の生存にかかわるかつてない課題に直面し、かつ大学の歴史的な大変貌のなかにあって、大学はいかにあるべきか。
 一つには、広汎な人びとの高等教育への要求にこたえることである。
 二つには、社会の要請に応ずる人材養成の責任をはたすことである。
 三つには、地球史的・人類史的課題にたちむかう学術的知見の創造の役割を正当にになうことである。

 この三つの課題を実現し、将来の大学の社会的責任をどうはたすのか、それに答えることがいま切実に求められている。

「大衆化に即応する大学」と「高度な人材養成のための大学」、「学術研究のセンターとしての大学」という三つの課題は、相互に矛盾をはらんでいるが、この内在する矛盾の側面を自覚し、持続可能な発展を維持しつつ人類史の未来をきり拓くという困難な課題を大学がどうはたすのか、ここにいま、大学がかかえる本質的問題がある。

 日本の大学が直面する問題の根源も大局的にはもちろんおなじである。しかし、日本ではさらに深刻な問題をはらんでいる。

 その第一に、少子化傾向が急速にすすみ、大学が大衆化するなかでも、大学入学者が減少する傾向が避けられず、入学者の急増時に膨張した大学の経営上の問題を必然的に生じ、将来への不安をひきおこしている。そこから、大学間の学生獲得競争が激化し、安易な入学選抜制度がひろまり、ひいては大学における知的後退をまねき、大学の危機の深刻化をもたらしている。

 第二に、社会経済的問題として、国や地方公共団体の財政事情が悪化するなかで、国・公立大学の経費削減、行政簡素化のための行政組織改革、国家公務員数に大きな比率をしめる大学教職員の定員削減、それとからんだ国立大学の独立行政法人化の議論などが生じている。また、家計の所得水準の低下、リストラの進行による失業率の上昇は、大学、とりわけ私立大学への進学をためらわせかねない状況を生んでいる。

 第三に、日本の科学・技術水準がいまなお世界で競争し得る水準を維持しているか、という疑念が主として経済界から生じている。わが国の大学が世界の先端的技術開発に遅れをとることなく、高度な研究を展開しているか、その成果が遅滞なく企業に伝達され、わが国の企業の技術レベル向上に役立っているか、世界に通用する高度な研究者、技術者、管理者、職業人を十分に養成し、企業に提供しているかが、きびしく問いかけられている。

 少子化といい、財政事情の悪化といい、その歴史的社会的背景にはさまざまな見解があり、その打開の道についても多様な意見があり得る。しかし、こうした現実のなかで、「国家百年の計」である大学・高等教育のあり方を考えるにあたって、「効率化」、「競争」、「行政改革」といった個別の部分だけを突出させて議論することは危険であり、避けられねばならない。

 「効率化」や「競争」だけに目がむけられ、また行政改革的発想から、学術文化行政が先端的技術開発の部分にかたよるとすれば、それは広汎な人びとの高等教育への期待にそむくばかりか、長期的にみたわが国の学術文化の基礎をそこない、ひいては先端的研究の疲弊化をもたらすことになるだろう。

 必要なのは世界の趨勢と日本の将来を見誤ることなく、長期的な見通しをもった総合的な施策を推進することであり、それなしには大学と学術文化の衰退を招く危険がある。

 とりわけ大学の教員には、教育・研究機関である大学において、それぞれの学問分野の専門家としてはもちろんのこと、全人類の進歩をめざし大学を創造的に発展させるうえでも、その社会的責任を真剣にまっとうすることが求められている。

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第U章:大学問題を考える基礎的視点

U−1.「世界史の趨勢の視点」から

 今日、日本の大学問題、大学改革問題を議論するとき、いかなる視点にたつことが必要なのだろうか。

 われわれは、「学術・文化・大学」の世界史的・人類史(地球市民)的な「歴史状況の認識」から出発することが大切であると考える。

 具体的には、国際的な承認をへている視点、国際的動向の視点にしっかりたつことである。すなわち、今日、日本の大学問題を考える際に、近・現代の市民憲法や国際条約およびその下位法までも視野におさめた研究・教育・技術・文学・芸術などの文化的諸活動についての基本的な考え方、それをふまえることが、まず大切だと考える。

 こうした視点は、大学や、学術文化のあり方について、将来への展望をもつためにも欠かすことのできないことである。

U−2.憲法理念の発展にみる「文化国家」の視点

 近代立憲主義型市民憲法の段階では、知的精神的諸活動をふくむ文化的諸活動は、原則として人権(自由権)として保障されてきた。それが現代市民憲法の段階では、文化的諸活動については、近代立憲主義型市民憲法の原則を前提としつつ、さらにそのための積極的な条件整備を国の責務とするようになった。これが「文化国家」の憲法的理念であるといえよう。

 「文化国家」とは、積極的に社会の文化的諸活動を援助助長することを目的とする国家である。単に個人の自由の消極的保護を目的とする法治国家より、学術・文化の発展に積極的である。

 日本国憲法下の政治は、文化的諸活動のための人権の保障はもとより、「文化国家」の理念をも同時に具体化すべき立場にある。日本国憲法において、またそれを具体化する下位法や日本国憲法下で締約された条約においても、「文化国家」の理念(原理)が多様な方法で確認され具体化されている。「われらは、さきに、日本国憲法を確定し、民主的で文化的な国家を建設し、世界の平和と人類の福祉に貢献しようとする決意を示した」とする教育基本法前文冒頭の指摘は、その最たるものである。「日本学術会議法」の前文にも、「日本学術会議は、科学が文化国家の基礎であるという確信に立って、科学者の総意の下に、わが国の平和的復興、人類社会の福祉に貢献し、世界の学会と提携して学術の進歩に寄与することを使命として、ここに設立される。」とある。

 しかし、現代の日本において、とりわけ行政改革・財政改革のなかで、残念ながらこの「文化国家」の理念が軽視されがちなことはいなみがたい状況である。

U−3.国際的な諸条約の到達点に注目する

 今日、グローバル化が進行するなかで、日本の大学が世界の大学に伍していくためには、国際的動向にたえず注意をはらうとともに、可能な限り主体的に関与していくことが必要である。

 国際的動向に注意をはらうというとき、それは、

 (1)世界人権宣言(1948年)、(2)国際人権規約−〔A規約〕経済的、社会的及び文化的権利に関する国際規約、〔B規約〕市民的及び政治的権利に関する国際規約(1966年)、(3)有給教育休暇に関する条約(ILO 140号、1974年)、(4)高等教育の教員の地位に関する勧告(ユネスコ、1997年)、(5)21世紀に向けての高等教育世界宣言−展望と行動−(ユネスコ、1998年)、(6)科学と科学知識の利用に関する世界宣言(世界科学会議、ブダペスト、1999年)−など、各種の国際的取り決めに積極的に対応していくことを意味する。

 さらに、国連における「子ども(児童)の権利宣言」(1959年)、「女子に対するあらゆる形態の差別の撤廃に関する条約」(1979年)、「子ども(児童)の権利条約」(1989年)、「現代の世代の未来世代への責任に関する宣言」(ユネスコ、1997年)など、女性や未来世代の教育問題についての国際的に到達されている見解にも、おこたりなく視野をひろげることが必要である。

 これら国際的取り決めについては、その制定過程ではげしい論争があり、また宣言のたなざらしや条約の未批准などの現実があることは事実である。しかし、このような国際的取り決めは、その実効ある結実を求める世界諸国民の願望が、宣言・条約・規約・勧告という形でまとめられたものであることを忘れてはならない。

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第V章:国際的にみる日本の大学

V−1.財政基盤の弱い日本

 日本の大学を国際的な視野のもとで考察するとき、そこには多くの重大な問題がある。

 そのもっとも大きな問題点は、他の先進国と比較した財政的基盤の弱さである。とりわけ高等教育に対する公的財政支出が少なく、例えば、欧米諸国ではGNPで1.2ないし1.4%に達しているのに対して、日本ではその二分の一程度にとどまる。高等教育人口や、私学セクターの規模など、条件の違いはあるにせよ、経済大国である日本の高等教育への投資は不充分といわざるを得ないだろう。

 日本の大学の危機を打開するためには、後述するように個別の大学の改革努力が必要なのはいうまでもない。しかし、日本の現状からするとき、受益者負担の名のもとに学生やその親の教育費負担をいたずらに増額するのでなく、国や地方公共団体による高等教育への財政支出の改善が必要である。それなしに個別の大学の努力に期待することには、大きな限界があることを認識すべきであろう。

 政府は、公的支出の増額のみならず企業を始めとする民間からの資金導入の拡大を図るために、例えば高等教育機関への民間からの寄付に対する税制上の優遇措置を考慮する必要がある。

 わが国の大学の社会的責任の根幹は、「知的精神的諸活動をふくむ文化的諸活動を担う役割を果たす」ことにある。先端的科学技術については、経済界の要望もあり、当該分野への重点的な経費配分の傾向がつよまっている。それは望ましいことであるが、その半面で研究投資の効率化、一般経費削減の傾向が同時に進行し、経費の重点配分の対象になりにくい基礎研究の分野では、文系・自然科学系ともに深刻な問題になりつつある。これらの分野はわが国の文化的諸活動の基礎をになうものであり、資金の配分や行政改革にあたって長期的な展望にたった学術・科学政策にもとづき、格段の配慮がなされなければならない。

 問題は、国・公立大学にとどまらない。わが国の私立大学は全大学生数の四分の三をしめるという、欧米諸国にみられぬ規模をもっているが、その経営基盤はいちじるしく授業料収入に依存しており、経常的経費にしめる国の補助金比率は一割強にとどまる。また税制などの関係もあり、寄付金のしめる比率はさらに低い。こうした状況のもとで進行しつつある若年人口の長期的減少は、さきにものべたように大学間の学生獲得競争を激化させ、私学経営を圧迫し、教育水準の低下を憂慮させる事態をまねいている。

 政府は補助金の増額、奨学金制度の整備、優遇措置を考慮した税制の改善などを通じて、私学の直面している危機の打開をはかっていく必要がある。と同時に、私立大学はその公共的な役割にかんがみ、説明責任にこたえるためにも積極的に「経営公開」をおこなうべきであろう。

 総じて、国立・公立・私立の個別大学の改革努力の必要性はいうまでもないが、政府は財政面をふくめて事態の改善にむけて積極的な政策方針をうちだす必要がある。

V−2.学術交流と留学生問題

 グローバル化する世界において、日本が国際的に貢献する上で学術文化交流は重要な課題である。特に地球環境の悪化への対処、発展途上国などにおける市場経済化にともなう法制度の整備や経済・経営に関する知的装備の不可避性などが、その必要をいやがうえにも高めている。

 政治的・経済的な国際交流では、国益や利潤の追求から円滑な交流がゆきづまることがしばしばみられる。学術文化交流は、そうした国際対立をときほぐし、国家間の平和的共生を促進するうえできわめて有効に機能する。したがって、ODAに学術文化交流の視点を強めることもふくめて、大学をはじめとする諸機関の学術文化交流の資金をもっと充実させることがのぞまれる。

 また、日本の大学が国際的に貢献するうえで、留学生問題はなおざりにできない重要な問題である。ところが、近年、日本への留学生数の伸びは停滞傾向にあり、10万人留学生計画が当初の目標通り実現する可能性はきわめて乏しい。

 これについては高い日本の生活費、言語問題、大学情報の不足、教育研究体制の問題、希薄な異文化受容意識、経済不況等々の原因が考えられるが、あわせて国・公立大学にくらべて、私立大学における外国人留学生の勉学条件がなお劣悪であることにも注目しなければならない。

 「情報化」・「国際化」の進行するなかで、各国とも大学における教育・研究の水準が、国際的な競争や評価にさらされる事態をまぬがれない。日本の大学の教育・研究の内容、水準、方法は、諸外国の大学や国際社会のそれに比肩するものか否かをつねに問われている。大学の国際的評価や大学の格付けはさらにきびしいものになるだろう。

 こうした世界的状況からみて、施設・設備などの物的条件はいうまでもなく、留学生の受け入れ体制や教育・研究上の指導のあり方についても、現状を早急に改善する必要がある。その際、大学における教育・研究活動の補助的な人材や、留学生担当の事務職員の充実にも十分な配慮をすることが不可欠である。

 日本の大学を国際的に開かれたものとし、国際的評価を得て、多くの留学生を受け入れることをめざすのは、単に学術文化交流を通じ世界に貢献するためだけではない。いまや世界的な視野を抜きにして教育・研究についての総合的な方策をたてることの困難な時代をむかえている。大学における研究、教育の水準はその国際社会における通用性を問われているのである。

 大学の国際的な基準での格付け、卒業生の国際的な資格制度の整備が急速にすすむなかで、わが国の大学が国際的に通用する研究者、技術者、管理者、職業人を送り出せるか否かは、大学の存続にかかわる問題になりつつある。そのためにも各大学の教育体制、カリキュラムの見直し、教職員の教育研究活動の充実にいちだんの努力が必要とされるが、個々の教員の努力だけでは、問題の抜本的な解決は困難である。大学における研究教育の格段の充実をはかるために、教員以外の補助員の充実、研究支援にあたる技術系補助員の増員充実が緊要の課題であろう。

 行財政改革の一環として国家公務員の25%削減がいわれているが、大学の教職員についても一律に削減されれば、大学の貧困化はさらにすすみ、その国際的評価は下落することになるだろう。

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第W章:大学の説明責任と評価の問題

W−1.大学の自己点検と説明責任(accountability)

 今日、各大学が将来をめざして改革をすすめる際に、第U章でのべた基礎的視点に着目し、それぞれの大学がみずからの理念を具体化した自主的・自立的な立場を宣明することがなによりも求められている。

 個別の大学が、将来なにをめざすのか、どのような人間を育成するのか、そのためになにをするのか。こうした課題の実現のために現状のどこに問題点があり、それをどう変えていかなければならないのか。そのための財源はどうか、大学の管理組織はこれでよいのか、カリキュラムはどうあるべきか、−つづめていえば各大学の@理念、A特色、B社会的存在意義を鮮明にすることが必要とされる。大学の独自性を社会に明らかにすることは、いまや大学に求められている基本的な課題であるといってよい。

 巨額な研究費を使う研究プロジェクトについて説明責任の必要性がいわれているが、それだけでなく科学研究費補助金の増加が続くなかで、その分配・使途をめぐる研究者の説明責任は避けられないものになりつつある。

 しかし、説明責任は、資金の使い方とその成果の公表にだけ狭く限定して考えるのでは十分ではない。大学はそれぞれに、国民に対してその理念と目標を明らかにし、その実現にむけて問題点を公表し、解決のために努力することを求められている。説明責任はより広義に理解されるべきであろう。

 既述したように、いま日本の大学が求められている課題は多様である。その多様な課題の実現を大学がそれぞれに自覚すべきことは当然であるとして、それぞれの大学でそうしたすべての要望に応じるのが困難であることも明らかである。「大衆化した開かれた大学」と「先端的学術センターとしての大学」という、二つの矛盾をはらんだ要望を同時に満たし得る大学は決して多くはない。ある分野のセンター的な学術研究と研究者養成を目標とする大学、実力ある技術者・管理者を養成する大学、職業人としての素養として高い教養を身につけさせる大学など、600校をこえる大学の多様化はさけがたいすう勢であり、それだけに「各大学の理念、特色、社会的存在意義を鮮明にすること」が切実にのぞまれる。

W−2.大学評価の問題

 大学の説明責任と密接不離の問題として、ゆきとどいた評価システムの確立の問題がある。

 大学の評価というとき、まず明らかにされなければならないのは、@目的(なんのために評価をするのか)と、A評価の主体(だれが評価するのか)である。

 大学評価の目的は、なによりもそれぞれの大学の自己改革・自己変革をうながすことにあるが、同時に国民に、各大学がもつ社会的意義を正当に評価するのに必要な客観的な情報を提供することにある。この目的にそって適切な評価をおこなうためには、大学自身の自己点検・評価の努力にとどまらず、第三者による外部的な評価が不可欠である。

 その第三者による評価には、大学相互間の評価、専門家集団(学会など)による評価、あるいは学生による評価、マスメディアによる評価など、複数の評価主体と評価基準にもとづく実践が求められるべきであろう。

 教員の研究業績評価は、これまでも採用や昇任の際に制度的におこなわれてきたことであり、改めて第三者による評価を制度化することに疑念や難色を示す大学教員も少なくない。大学教員の研究活動が、個人研究の場合はもとより共同研究においても、究極的には個人の責任と努力に負うものであることは自明のことである。自己の研究に自負心をもつ大学教員が、第三者の評価をうけることに疑念をもつのは理解しがたいことではない。

 しかし、学問・研究および大学をめぐる社会的状況の変化、大学のはたすべき社会的責任を考えれば、個人的な自負心のみにたって孤高をよしとする伝統的な考えは、再検討されて然るべきであろう。

 膨大な研究費を費消する大型プロジェクトにたずさわる研究者はもとより、そうでない教員であっても、教育研究費の主たる負担者である国民に対して、教育・研究の活動やその成果に関する情報を公開することは避けることのできない課題である。

 地球環境や食糧・人口問題など地球的規模の人類史的課題が緊急の問題となり、また高学歴化がすすみ、情報化の進展により国民の知的関心が増大するなかで、大学に対する国民の関心ば従来にもまして高まっている。このときにあたって大学教員は自己の教育・研究活動について、社会に情報を公開し、社会との対話の機会をひろげ、第三者の評価を聞き、教育・研究のいっそうの充実に生かす道を考える必要があるだろう。

 大学教員の評価については、もうひとつ教育者としての評価の問題がある。いまや大学に期待される重要な使命が、研究と並んで、いやそれ以上に教育にあることに留意し、教育面での改善をはかるとともに、大学教員の教育者としての評価にさらに考慮を払う必要がある。

 このことともかかわって、大学にはFD(faculty development=教員相互研修)の自主的な展開をはかることが期待される。また、大学院の拡充が大きな課題とされるなかで、学部と大学院のカリキュラムの整序化、学部と大学院における専門教育の違いの明確化、職業人育成を主眼とする大学院と研究者養成の大学院の制度上の分化などが必要とされる。

 重要なのは大学教員が独善におちいるのを避け、教育者・研究者として、学問研究の自立とその社会的役割を明確にし、国民の理解を得るために、これまで以上に努力をはらうことである。第三者による評価にあたっては、こうした大学における教育・研究活性化への主体的な努力を重視し、行政的・管理的な評価におちいることのないよう、十分に配慮することが望まれる。

 現在、第三者評価機関として「学位授与・大学評価機構」(仮称)の2000年4月からの発足が予定されている。この機関が真に大学の教育研究の活性化を奨励し得るものとなるよう、換言すれば、権力的な、また硬直化、形骸化した評価の機関とならないよう、大学人が主体的に運営に参加し、評価することを可能にするシステムとしていくことが必要とされる。そのためには、個別の大学のきびしい自己点検と評価体制の確立が、重要な前提条件であることはいうまでもない。

 こうした努力を通して、大学・研究機関と国民とのあいだに、教育・研究の創造的発展に寄与する好ましい環境をつくりだすことが期待される。

W−3.国立大学の「独立行政法人化」問題

 大学改革と評価に関連して、現在、日本の大学問題を考えるうえで、国立大学の「独立行政法人化」の問題は避けて通ることのできない重要な問題である。

 目下進行中の行政改革の一環として、国家行政組織の減量化・効率化の意図のもとに、1997年春ごろより国立の大学や研究機関等を独立行政法人化しようとする動きがクローズアップされてきた。すでに国立研究所などが先行して独立行政法人化の対象とされ、国立大学の独立行政法人化問題も最終結論を2003年までにだすことが予定されていた。

 ところが、最近になって、定員削減問題とからんで文部省自身が、国立大学の独立行政法人化への移行を検討し、具体案を提示するという事態が急浮上し、2000年7月の概算要求時までに結論をだすことが求められている。

 国立大学の設置形態の変更は、もし実施されるとすれば、明治期の帝国大学の設置、第二次世界大戦後の新制大学の設立につぐ、日本の大学制度の歴史のうえでの第三の大改革といってよい。ことの重大性を考えれば拙速に結論を急ぐべき問題ではないことが銘記されなければなるまい。

 本来であれば、進行中の大学改革の結果を熟慮・勘案し、国立大学の現在の設置形態が、教育研究の活性化の大きな障害となっていることが明確に認識されるに至ったのちに検討されるべき問題である。いま必要なのは、日本の高等教育・大学はいかにあるべきか、また公・私立大学との関係や、公・私立大学、とりわけ多数を占める私立大学への影響をどう考えるべきかといった根本的な問題について、長期的な展望にたった国策としての理念・計画を明確にし、そのうえで国立大学の設置形態の問題点も洗いだすことであろう。

 例えば、年度にしばられた予算の執行、民間企業との兼業禁止、国際共同研究における予算執行の困難、マスプロ教育、定員削減による教職員の多忙化等の問題の検討を通して、あるべき姿が大学の側から提案され、改善のためにどのような法整備が必要であるのかを検討する時間的余裕が求められている。

 ところが、いま進められようとしている「独立行政法人化」は、行財政改革の一環として効率化、人員や予算の削減を主目的に提起されたものであり、大学における教育・研究上の要請を基礎にしたものではない。主務省の監督権限が実質的に強まり、官僚的統制の強化を招き、予算と定員のみが削減されるという事態につながる危険性はきわめて大きい。「国家百年の計」である大事の策定が、十分な検討の努力なしに推進され、国立大学の「独立行政法人化」が実施されるとすれば、それはきわめて遺憾なことといわねばなるまい。

 われわれは、T−3で、大学が担うべき三つの課題(人びとの広汎な高等教育への要求に応え、人材の養成と、学術的知見の創造的役割をになう)についてのべた。このような課題を遂行する大学にあって、憲法とそれを具体化する法律によって認められた自由と自治が制限されたり弱められることは、設置形態の如何を問わずあってはならないことである。大学における研究・教育の自由と管理運営上の自治の権利は十全に保障されなければならない。また、目標・計画とその評価は、定量的な「効率」だけを基準にするのではなく、文化国家の理念をふまえて、教育・研究の活性化・向上・発展の見地からおこなわれることが必要である。

 こうした条件が満たされないままに、「独立行政法人化」が一方的にすすめられ、大学という長い伝統と独自性をもつ組織に対して、制約・規制が先行することになれば、日本の大学は国際的にも立ち遅れ、将来に重大な禍根を残すことになることを重ねて強調しておきたい。

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結び:21世紀の大学とその社会的責任

 高等教育「大衆化」の流れが加速するなかで、大学が社会の必要とする高度の専門的人材の養成と、新しい知識の獲得と伝達、学術研究のセンターとしての役割をはたすことは、将来においても変わらない。学術文化の研究を通して大学が社会的に貢献し、基礎と応用とのダイナミックな展開によって新しい知識をうみだし、その研究成果を学生に伝達し、伝授することを通して、教養ある市民やすぐれた専門的人材を育て、それがさらに新しい研究成果をうみだす基盤になるというサイクルは、今後も変わることはないだろう。そして大学はそうしたサイクルにふさわしい教育と研究の展開をたえず模索していかなければならない。

 もちろん高等教育のユニバーサル化(普遍化)が進むなかで、大学が機能的に分化し、多様化していくことは避けがたい。すべての大学が「研究大学」でありつづけることは不可能であり、またそうありつづけることが望ましいとはかならずしもいえない。

 さきにものべたように、各大学の@理念、A特色、B社会的存在意義が明確化されれば、それにもとづいて学生は大学を選び、そのなかでそれぞれに充実した高等教育を受けることが可能である。

 こうして大学の「多様化」が避けがたいものであるとしても、21世紀を前にして「国際平和と国際理解、国際協力ならびに持続可能な開発という全世界的な目標」は、すべての大学に共通したものであることはいうまでもない。

 20世紀の後半に、環境・生命・宇宙・人権など多様な専門領域において深化した研究の成果に立脚し、幅広い視野から自主的・総合的に的確な判断のできる教育を基礎に、新しい人材を育成することこそが、今日の大学に求められているものである。

 21世紀には、大学は高度な教育訓練を受けた人材の育成、知的生産の役割、研究能力の強化を通して、産業界および社会との協力をいっそう進めることになるだろう。と同時に、地球環境の維持や生命科学の発展による諸問題などの人類史的課題に直面して、危機の予見的機能が大学の機能としてさらに重要性を増すだろう。それは自然科学のみならず人文・社会科学をふくめて、近代文明の反省として、知識の俯瞰的統合のもとに、大学がはたすべき重要な機能である。

 危機の予見的機能というとき、それは大学における「学問・思想の自由」の保障なしにはあり得ない。それだけに大学の構成員は、教育・研究を通して自立するとともに、社会の負託にこたえる自覚をもつことが必要である。

 もちろん、「学問・思想の自由」の問題は、ひとり大学にだけ固有のものではない。教育の全過程を通して「市民的な自由」が存立してこそ、将来の人類史的な課題にこたえ得る人間を育てることができる。21世紀を望む現在、このことを国民的に自覚することがとりわけ肝要である。

 日本の近代化の光と影が、現在にどのような問題として現れているか、たえずそのことに注意をはらい、その影を克服して、日本の大学が国民的にも、また地球市民的にも、創造的な役割をはたし発展を続け得るよう、大学人はもとより国民的な英知を傾けていただくことを強く念願するものである。

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