技術者教育の認定制度及び技術者資格問題に関する

日本学術会議会長談話

平成10年12月17日

日本学術会議会長

吉 川 弘 之

 現代を特徴付ける最大のものは、環境の人工化である。都市においては、建造物、道路、交通機関、通信網などが空間を埋めつくし、その中での人々の生活も、人工物の道具に支えられてのみ成立する。そして、このことは都市に限らずあらゆる地域へと拡大して行き、自然は貴重な保護すべきものへと変化した。

このような状況は、近代に始まる技術の進歩を根拠として出現したものであるが、とくに20世紀においては、技術の爆発的進歩によって環境の人工化が加速度的に進行し、高度な豊かさを実現するとともに、数々の問題をも生じることとなったのである。

技術の進歩の中心に技術者(建築士を含む、以下同じ)がいる。それは技術進歩の推進者であると同時に、多くの可能性の中から現在の技術の様態を定めた選択者でもあると考えるべきであろう。とすれば、技術者とは組織の中の一要素として従属する者でなく、社会の中で主体的に振舞う行動者として、改めて位置付けることが必要となる。

社会の中で主体的に行動し、従って技術的状況に責任を持つものへと技術者が変化を遂げるとき、技術者の新しい社会的定義が不可欠となる。このことが、技術者が社会的に認知された資格を必要とすることの本質的根拠である。技術者資格(建築士資格を含む、以下同じ)は、このことを中心に置きながら、その専門における技術知識や信頼性に精通し、競争力ある独創的製品を創出するのは勿論のこと、その技術の社会的意義、倫理性、他技術との関連、相乗効果、そして環境、エネルギー、資源、人口などの、人類が抱える重大な課題との関連を深く洞察する能力を持つ技術者に与えられる。

一方、資格制度の確立とともに、このような能力を持つ技術者の教育も、技術の学理を教授する工学教育に加えて、社会的職能集団としての自覚をもつ専門職を育成する技術者教育の視点を強化することが求められる。このような質的変化に対応しつつ、国際的に通用する水準の高い教育を実施していることを専門教育プログラムごとに認定する制度も必要である。

地球環境問題などの、世界化する諸問題に直面し、また一方で大競争時代と言われる厳しい世界市場の中にあって、各国は先進工業国か開発途上国かを問わず技術者資格と技術者教育認定制度の展開に驚くほどの努力を傾けている。しかも、両者の世界標準化がAPEC、EU、NAFTAなどの域内に止まらず、それらを超えて急速に行われつつあることは、注目すべきことである。

今ここで、我が国がこのような世界の動向を看過し、世界標準と適合する技術者資格および技術者教育認定制度の早期確立を怠るならば、世界市場における技術競争から脱落するのみならず、人類の抱える問題を連帯して解決すべき一員としての我が国の責任を放棄したと見なされるであろう。

かえりみれば、世界的奇跡とされた我が国の高度経済成長は、動機付けられた意欲と、高度な水準の作業力を持つ労働力に支えられたのであり、そのことが強い競争力を達成しただけでなく、セキュリティの高い、安全で豊かな民主主義的社会を実現する根拠であったと言えるであろう。それは、言うまでもなく、歴史的に確立した優れた教育を背景としていたのである。それが今、教育の水準低下、若者の学問ばなれや勉学意欲の低下などの憂うべき状況に見られるように、崩壊しつつあると考えざるを得ない。これを放置すれば、経済再建はおろか、我が国の産業力が低下し、二流経済国に落ち込むことは確実である。

そこで、技術者教育認定制度によって高等教育機関における工学系教育の中に技術者教育の視点を確実に埋め込むと共に、資格制度の確立によって学ぶ者に正当な動機を育成することは、我が国が高度経済成長を成就させた根拠としての、国際的に見て高い水準を持つ社会的活力を再生するための必要条件である。いわばその活力は、我が国にとって潜在する財産である。その活用は我が国が経済的優位に立つために必要であるのみならず、人類が直面する深刻な課題を解決する一員としての役割を果たすためにも重要な責務であると言わねばな らないであろう。

一日も遅れることなく、工学系教育に対する技術者教育認定制度を導入し、また国際的に整合性のある技術者資格を確立することが必要であることを、ここに強く表明したい。その実現のためには、政治、行政、産業および教育の各界が、それぞれ持つ固有の役割を十分に果たしつつ、利害に捕らわれぬ協調を行うことが必要条件であることを、当然のことではあるがここに敢えて付言しておく。